結婚なんてものは人生の足枷だ。
両の手足を縛り、自由な行動を制限し、個人の思考を封じ込める。
そうであっても構わないという強い意志がある者だけが、そこへと踏み込んでいく。もしくは、枷をものともせず自在に動ける力を持つ者だけが欲することのできる生き様だ。
強さこそが正義、の村で育ったシオは、いつからか結婚に対してそんな意識があった。
結婚、から生み出された家族の一員として思うこと。
父や妹たち家族を枷だと思ったことはないし、もし他者から「それを枷というのよ」と指摘されたとしても、なるほど自分は枷をものともしない力を持つ者なのだ、と考えただろう。
それでも、結婚に対しては意義を見出せなかった。
どんな男から求婚されてもそれを受け入れたいと思うほどに魅力的なものだとは思えなくて。
それよりも末の妹ミオを一人前の冒険者に育てなくては、という使命の方がよほどの大事だったのは事実。
それを決して逃げの口上に使っていたとは思いたくないが、結婚に対するそんなあやふやな思いを母には見透かされたのか、と考える。
「あんたはそうやって妹にかまけて、母親ヅラして、満足しちまってんだよ」と言われたことも、「このままとんだ勘違い野郎になられちゃ、村で暮らすあたしだって迷惑なんだ、そこんとこよく考えるんだね」と言われたことも、普段より腹が立たなかったのはシオの心境の変化が大きい。
結婚の決め手にかけるシオの心の有り様を見抜いて、母は、その背を押した。シオがこれ以上言い逃れを考えなくて済むように。あえて、口の悪いところを発揮して。
(いやいやいやいやいやいや!!)
下の村へ降りる道を一人歩きながら、シオは、ゾッとしない考えに捉われそうになるのを振り払うように、両腕をがむしゃらにさする。
(違う違う、母さんは自分の好きなように引っ掻き回してくるだけ!いつものこと!)
なんだかおかしい。
つい先ほどに、泉で母と二人きりの時間を経てからどうにも心の置き所が不安定だ。
シオはあの会話から、『ケジメをつけろ』という母の真意は、ミオを思ってのことだと確信している。あたしの名を汚してくれるな、というのはいつもの母の行動からも理にかなってるようにも思うが、それよりも、娘としての本能とでもいうか。
だが、それが契機であったかのように、母の行動を一つ一つ思い起こしては素晴らしく人格者の行いのように受け取り始めている自分が怖い。
(これはあれね!うん、あれだわ)
普段から素行の悪い人間が、なんということもない善行を一つして見せただけで、世間が大絶賛するという、あの現象だ。
特別善行でもなんでもない、ごく普通の人として当たり前の事をするだけで、人は見た目じゃない、だの、思っていたより素晴らしい人間だった、だの、私の目が狂っていたようだ、だのと言われるのが、悪行三昧の人間が巻き起こすタチの悪い感動劇。
(なんって得な生き方なの!!)
危うく自分はそれに引っかかりそうになってるだけだ、と言い聞かせながらも、普段から母親に振り回されている長女としての弱みだと思う。
シオだって、本気でお得だと思っているわけではないけれど。結局、自分は母のようには生きられないとわかっている。
祖母の教育のおかげで。
「あんたは賢い。賢い人間は、先人の言うことを疎かにしないもんだよ」
双子が生まれ、母が村を出ることが当たり前になった頃から、祖母は村に戻ってきていた。母がいない間、戦いの能力に関しては、ほぼ祖母の手ほどきに則ってシオは育ったのだ。
よくできた時は、筋が良い、と褒めてくれた。あの子の娘にしちゃ、あの子より飲み込みが早い。と言っては、シオのやる気を煽った。
逆にできない時には、できるまでやる!とがむしゃらになるシオを諌めてみせた。
「あんたは母さんにはなれないんだよ」
それをわかってるか?と言い聞かされても、母に憧れ、母のような冒険者になるのだ、という夢を抱くしかない幼さには響かなかっただろう。それをよくわかっていたのか、祖母は、
「あんたの母さんは、もうとっくにヨーイドン、でずっとずっと先に行ってしまってる。その後を同じように走っていったって、絶対、追いつけやしないよ」
わかるか?と言われて、頷いた。
「だったらやることは一つだ。あんたはあんたにしかできないやり方で走っていかないとダメだ。母さんの行った道を道なりに行くんじゃなくて、山を越えて、湖を渡って、洞窟を抜けて、あんただけの道を生きな」
左の人差し指を規則正しく進め、右の人差し指を出鱈目に動かして見せて、そんな話をする。
「そうしたら、追いつける?」
と問いかけるシオの幼さに笑って。もちろんだよ、と祖母は自分の胸を指した。
「このあたしが、あの子に追い抜かれたんだ」
負うた娘が今はもう自分よりずっと高みを行く冒険者となった。それはこの村では屈辱でしかないこと、幼いシオでさえも理解する。それを隠しも誤魔化しもせずに孫のために言ってくれた言葉は、後々までシオの奮起となった。
「先人の言うことは疎かにしないもんだよ」
あれがなければ、シオは母に憧れるあまり己の成長を見誤り、拗らせていたかもしれないと思うのだ。
(追いつけたかどうか、なんて、わからないけど)
逆に、母と同じにはならない、と言う意地のあまり、別の方向に拗らせている様な気がしないでもないが。
(そのせいで、自分の家族をもつことに消極的になってる?)
母の生き様を見ているだけに、自分が結婚して、伴侶とどうありたいのかが分からない。単に母と逆の方へ、逆の方へと走るあまり、自分の気持ちも伴侶のことも置き去りになりはしないか。
そんな失礼なことはできない。だから自分の気持ちが決まるまでは、相手を巻き込むまい、と心のどこかで頑なになっていた自分に気づく。
「つまんない女になっちまったね」と言った母の顔を思い出して、実に不愉快になった時、いつの間にか下の村に住む父の家のそばまで来ていることに気づいた。
道の先では、行商人の馬車が見える。
父の家には寄らず、シオはそちらの方へと歩みを進めた。
村に馴染みの行商人は、広げていた商売の場を丁寧に片付けている様だったが。
近づいてきた人影に気づいて顔をあげた。
そして商売人特有の愛想も見せず、特に表情もなく、ぼそり、と言った。
「生憎だけど、今日は早仕舞いだ。持ってきた荷が全て売れてしまった」
行商としては嬉しかろう報告も無感動に口にする。この男はいつもそうだ。
シオはそれをよく知っている。
「そうみたいね」
それだけを言えば、こちらを気にする風もなく、片付けを再開する。
「何か入り用のものがあったのなら、言ってくれればまた二、三日中には来れる」
物にもよるが、と続けるのを、シオはその片付けの様子を見守りながら、良いの、と返す。
「今日はそのつもりではないから」
買い物に顔を出したのではない、というのを受け取って、彼は片付けの手を止めた。
そしてシオを見る。
「オレガノさんに、聞いた」
母さんが帰ってきているんだろう?と言うのに、ええそうよ、と言いかけて、シオは彼の言いたいことを察する。
「ごめんなさい、そういうのでもないの」
今日はうちに泊まるか?と誘いにきたのではない、と暗に返しておいて。
「欲しいものは、別にあるの」
そう、今、何よりも欲しいものは。
自分の気持ちだ。
ケジメをつけるための、気持ち。
シオは今、彼を前にして、そこに踏み込む。