シオに初めて求婚した男は、村に馴染みの行商人の息子だった。
それまで通い詰めていた父親に代わり、この村の担当を任されたばかりの彼は、多くの娘の好奇にさらされながらも物おじせず、シオに自分を売り込む事に熱心だった。そう、商いよりよほど。
その情熱と一途さは若い娘たちの羨望を集め、まだ若手だったシオもそれなりに気を寄せていたのだ。
だから彼が村に滞在するのは決まってシオの元で、その仲が半ば公認の様になるのもそう日数がかからなかった。
一晩を共にする間に、彼とは互いに旅の話を交わすことで信頼を深めあう。その流れで求婚された夜に、シオは、「なぜ私なの?」と、娘らしい可愛らしい質問を投げる。6つほど歳上の彼は、娘に添い寝する父親がおとぎ話でも聞かせるような声音で思いを打ち明けた。
「君は母親が不在の家で育っただろう?僕は父親が不在の家で育ったから」
初めは、親近感。それから同情。深く知り合う様になってからは、僕だけは君をわかってあげられると思ったから、と続ける。
「父親が不在がちなのは、行商人として当たり前のことだけど、やっぱり子供の時は切なかったな」
家に取り残される自分、母親と妹二人。境遇は似てるだろう?と笑いかけられて、そうね、と笑みを返す。そんなシオに、彼は初めて真面目な顔を見せる。
「僕が行商を手伝う様になって、周囲にも認められてこの村を一つ任された時、父さんは家を出ていった」
「家を?」
不在がちの父親が、家を出る、という意味。
「群れの中に、ボスは二人いちゃいけないんだ、ってさ」
それからは自分が家計を支える一家の大黒柱となった、と言う彼は、皮肉そうに笑った。
「何のことはない、外に他の女を作ってた、ってだけなんだけど」
「ええ、っと、それは離婚した、という事?」
まだ十代のシオには大人の複雑な関係は生々しすぎて、そんな質問をしたことを覚えている。それにも、彼は大人の余裕か、笑みを浮かべていたけれど。
「いや、離婚はしてないよ。母も、了解のことだよ。もう私にはお前と娘たちがいれば良い、ってね。諦めかな。母を思えば、ずっと昔からそんな風だったのかもしれないけど」
なんと返していいか分からなくて、ふうん、と曖昧な相槌を一つ。
そんなシオの両腕をとって、彼は熱い思いを言葉にする。
「いや、僕の家の話は良いんだ。それはシオには関係ない。ただ言いたいのは、つまり群れの中にボスが二人いちゃいけない、って事。これは自然界では当たり前の事で、僕ら人間も実はそうなんじゃないかって。君のお母さんは、君が一人前になったから、家を出た。もう立派な大人として君を認めてくれた、ってだけで、お母さんがいないことを、シオが気にすることなんかないんだ」
彼にそんなことを言われて、シオは、初めて自分が母の不在を自分のせいだと気にしていたのか、と自問自答した。母を恋しがっている胸の内を見透かされたようで屈辱でもあった。同時に、歳上の彼は今までに付き合った同年代の男たちとはどこか違っていて、「僕らは分かり合える」との誘惑には素直に陥落されそうでもあった。
そんな心の細波をどうやって沈めたかは覚えていない。ただ娘らしい矜持のみで、じゃあ私も妹たちが一人前になるまでは群を率いていなくちゃね、なんて返したこと。
それは、家を出てあなたの求婚を受け入れるのは妹が一人前になってからだ、という意思表示だった。それがいつの間にか、シオの生き様になった。
結局、その彼とはうまくいかなかった事を思えば、意外と母の女の勘は正しかったのかもしれない、なんて思う。
「分かり合えると思う男とは結婚しない事だね」
そんな助言を一つ、シオにくれた母もまた恋多き女だったか。
(母さんなんて普段からそばにいないくせに、嫌になっちゃう)
あの母はシオの男関係など微塵も知らないだろうに。いや気にも掛けていないだろうに、言うことは存外、的を射ているのは村の女としての生き様。先人の言うことは聞くもんだよ、という祖母の面影にも仕方なく頷くしかない。
(そうね、私よりずっと先を走っていったんだから)
彼女たちの見る目はそれなりにシオを納得させる。シオもまた、彼女たちと同じ視点に立つ今だから、そう言える。
若いばかりで何もかもが新鮮だった頃、男たちの求愛も女たちの嫉妬も、悠々と跳ねつけるだけの闘争心があったからこそ、自分だけが持つ価値観で十分戦えた。今は、こうして彼女たちの言葉が沁む。双子はそれを「錆びついた」だの「衰えた」だのと言いたい放題言ってくれるが。
(あの子たちも同じように理解したりするのかしら)
双子の歳の頃。シオは。
初めての求婚から幾人もの男性から求められて数年後、旅先の町にたまたま立ち寄った武具屋の店先で彼と再会したのは、運命の悪戯か。
店主としてシオに対峙した彼は、バツが悪そうに笑った。そんな笑顔もシオの知っているそのままだったが。懐かしい、と思うより先に、彼が家庭を持っていることを知ったのだ。
シオとは正反対に、気の弱そうな女性は彼の子を孕っていた。人見知りで接客も苦手だから奥の仕事を任せている、と言い、代わりに店を回すのは陽気な母親だと紹介され。ついで、彼にそっくりな父親も紹介された。
父親が戻ってきたのは最近の事。それまでの不義の埋め合わせのように母さんにこき使われてる、とどこか嬉しそうに、両親を見る。なんだかんだと元の鞘に収まったらしい。結局、家族って収まるところに収まるもんだよな、なんて聞かせてくれる彼の背後で、夫婦喧嘩が始まって、シオは笑った。
「よかったわ、幸せそうで」
素直にそう言えた。もっと未練なんてものがあるかと思ったが、そうでもなかった。彼もそんなシオを見て、やっと自分を取り戻したかのように、おかげさまで、と言った。
おかげさまで、か。君に振られたおかげさまで、なんて意味なら祝砲の一発でこの店を崩壊させてやっても良いのよ、と不敵に笑うシオに、いやいや勘弁してくれ、と頭をかいて弱って見せた彼はちゃんと父親の顔だった。群れの中のボス、なんかではなく。
「それがわかっただけでも良かった」
去り際に残したシオの本意を、彼は受け止められただろうか。
家族は収まるところに収まる、そう言えるだけの大人の顔をして。それを理解できる歳になっていた自分に満足して、シオは遠い日の憧憬と別れたのだ。