人の手は、自然から繊細な素材を紡ぎ、しなやかな糸を生み出す。
生み出した糸を撚り合わせ、長く頑丈な一本へと仕上げる。
仕上げた多くの糸を縦横に並べ、柔らかな一枚の布を織る。
その一枚に鋏を入れ、一本の糸で縫い合わせ、人の形の一着が出来上がる。
その流れが、人の業だ。
決して滞る事のない、一流の業。
自分は、それを受け継いできた家に生まれた。
<1>
オレガノ=ハリートは、たった今、一人の女性によって命拾いをしたところだった。
18歳になり、家の仕事を一人でも任せられるようになって、一週間かけ布を買い付けに行った帰り道。
山道で突然現れたモンスターに襲い掛かられ、必死で馬車を駆って逃げ惑い、森の奥へ追い立てられて絶体絶命。
馬車に取り付いた数匹に恐れをなして、無我夢中で飛び降りた。草むらに転がり落ちた衝撃と、こちらに飛びかかってくる影の勢いが交差した瞬間に、「死んだ」と思ったのは確か。
死んだ。自分は、こんなところで。誰にも知られず、一流の職人としての名も残せず、これぞという作品さえも世に出すこともなく。
(母との約束も果たせず)
それが最後の思いだったか。
鮮烈な一閃、硬く瞑った瞼の裏で、ぎらついた銀の軌跡がその最後の思いを一刀両断にしたのは理屈ではなかった。
「ちょっと、あんた。大丈夫?」
と、柔らかな低音がオレガノを正気に返す。
体を縮こまらせたまま目だけがその光景を捉えていた。
午後の陽を受けて、強烈な光を放っているのは重厚な金属の大剣。
それを軽々と肩に担いでこちらを見下ろしている人物は逆光になっていてよくわからない。ただ若い女性だとだけ、わかった。
その体の線で。
体の線を惜しみなく晒している防具のせいで。
「なんか言いなさいよ」
と詰め寄られ、急死に一生を得たはずのオレガノは今起こったこと全ての衝撃を全身で受け止めて、勇気を振り絞って声をあげていた。
「服を着てください!!」
「はあ?」
それが、後の妻となるサフランとの出会いだった。
<2>
人は服を着る。必ず服を着る。あらゆる外敵から身を守るために。生きていくために服を着る。だから、私たちの仕事は不要とされることはないの。
それが祖母の言葉。
古くは綿農家だった曽祖父の代から続く服職人の家系に生まれたオレガノは、母に背負われる頃から職人たちの作業場に出入りし、母や祖母たちの仕事ぶりを見て育った。
初めて針を持った日の事は覚えてもいないが、「お前は得意そうに自分の手の平を縫って見せてねえ」というのは、いやと言うほど聞かされた話だ。
とにかく針を持てることが嬉しかったのは覚えている。さすが職人の子だ、上達が早い、と周囲に持て囃され、それを喜ぶ母に褒められることが当たり前の日常。自分はこの家に生まれたからこそ、家の名を世界に響かせるような立派な職人になるのだと、疑いもしなかった。
そんなオレガノに、母が語って聞かせたハリート家としての心構え。
古くから続く祖母の言葉は勿論、それを継いでいくオレガノのための言葉。
「大昔なら身を守るためだけの物だった服が、人が着飾るための物になった。人が安全に暮らせるようになって、装飾が持て囃されるようになった。男性も女性も、競い合うように素敵な服を求めるようになったわね」
必要品から、贅沢品になった。
それは人の世が豊かになった証。この先も、もっと豊かになれば服の意味もどんどん変わる。
「それでもハリートの名を継ぐなら忘れてはいけない事は」
服に向き合う心構え。
ハリート衣料品店として、ハリートの名を冠する職人として服と向き合うための覚悟。
「男性も女性も着飾るけれど、男性と女性が着飾る事の意味合いを忘れてはいけません」
男性は華やかに、周囲の目を殊更引きつけるために、着飾る。そうする事で注目を集め自分にはそれだけの力があることを誇示する。そうできる者がより華美な装飾を求める。男性が着飾るのは力の象徴。
女性もやはり華やかに着飾るけれど、男性と違い己の美を誇示するためではなく。自分の身を守るために装飾を身につける。
「胸元のリボンは二つの胸から視線を逸らすために、膨らんだ袖の形は華奢な腕を隠すために、大きく広がったドレスは二の足を意識させないために、ね」
女性が男性よりか弱い存在であることを、視覚化させないように女性は着飾る。女性が着飾るのは自分の魅力を服へと逸らすため。女性の装飾は賢さの象徴。
「あなたがこの先、どんな服を作ったとしても、それを忘れないで。ハリートの女性服はドレスもリボンもレースも女性を守るために作られなければならないのよ」
それが早くに逝ってしまった母の、絶対の言葉。
1日たりとも忘れた事はない。オレガノが女性服を作ることを得意とするのは、第一にその信条があるからだ。
それなのに。
その話を、オレガノの大事な信条を、サフランは鼻で笑った。
「ばっかばかしい」
と言ったサフランは、大きな胸としまった腰と丸い尻をこれでもかと見せつけて「全部あたしの武器だわ」と、大剣を誇るように鍛え上げた肉体を誇る。
そして「そんな窮屈なものに守られなくても女性は強いってことを教えてあげるわ」とオレガノを揶揄い、無理矢理一夜を共にし、町まで馬車で一週間の道のりを強引に同行したのだ。
道中ではモンスターを蹴散らし、ならず者をねじ伏せ、豪快に暴れ回る彼女は美しかった。今まで女性を守るために作ってきたはずのオレガノの服、それが彼女にはまるで必要のないものだったという現実は確かにオレガノを打ちのめしたが、同時に、強く惹かれてやまなかった。
か弱くどこか儚げで慎ましい暮らしぶりしか思い出せない母と真逆の生き方だったからだろうか。自分はまだ、母に、母の言葉に縛られているのだろうか。そんな迷いをだきながら、彼女に引かれていく自分を止められるはずもなく、それからも度々、遠方への買い付けには彼女を護衛として雇った。都合が合えば必ず依頼を受けてくれる彼女もまた、オレガノに好意を持ってくれていたのか。自分の何が彼女のお気に召したのか分からないまま、そんな関係が二年ほど。
ある日、父が宣言した。
ハリート衣料品店の職人、従業員、家族を集めての宣言。
「ハリート衣料品店の後継は、ヌーノとする」
その場の空気は、やはり、というものだっただろうか。
父は職人上がりの婿養子だ。母が早くに他界し、高齢の祖父母は表に出られず、店と工房をやりくりするのにもひどく苦労しただろうと思う。ややあって後妻に迎えたのは隣町の服飾店の娘だった。ヌーノは彼女との間にできた、オレガノの義弟になる。
「オレガノには、隣町に出す支店を任せようと思う」
そう続けられたことにも、やはり、という反応。おそらくは、オレガノの知らないところで大体の話は進んでいたのかもしれない。
職人たちはオレガノに同情はしても、自分たちの生活を捨ててまで味方をしてはくれなかった。義母の実家である装飾店の影響力は、オレガノの知らないところですっかりハリート衣料品店を飲み込んでいたのだろう。
後継でなくて構わない、せめて母のいた工房を離れたくない、という実の息子の懇願にも父は耳を貸さなかった。
「オレガノの腕を見込んで新しい店を任せたい」「オレガノでなければ支店は成功しないのだ」との表面的な賛美を持つ父の言葉は、弱った祖父母らにも特に異を唱えさせるものではなく。
家を離れる。
自分が名を継いでいくのだと子供の頃から信じてきた家を離れることは、耐え難い。
あの時の自分は、ただ絶望の淵にいた。
職人たちの同情も、祖父母の励ましも、若いオレガノの心を動かす事はなく。
その日を迎えるまで、胸の内に渦巻く理不尽な現実への鬱憤を断ち切ったのは。
たまたま店に立ち寄ったサフランの一言。
「あんたって、本当にガキねえ」
隣町の支店を任された、当分の間自由に店を出たりはできないだろう、だから君に護衛を依頼することもしばらくはない、そう項垂れたまま説明するオレガノに降ってきたのはそんな言葉。
年上の彼女は、束の間の宿での休息時には、必ずそうしてオレガノを揶揄ったりするものだったが、この時の声はそんな甘いものではなかった。ただただ呆れたような声音に、それまでの鬱憤もあって店先で恥も外聞もなく吐き捨てていた。
「君に何がわかるっていうんだ!」
生まれて初めて負の感情を他人に向けたことに震えた。慣れないことに、あまりにも安っぽい台詞。通りの人目も、店内の人の目も感じながら、頭に血が上って、サフランを見ることもできなかった。
二人で旅をした数日が幾重にも重なって情けなくも瞼を熱くした。
「だからあんたはガキだって言うのよ」
言われなくても身に沁みる羞恥に顔を上げられずにいるオレガノに、サフランが畳みかける。
「誰かにわかってもらわなきゃ生きていけないわけ?そもそもわかってもらえるほどの努力を何かしたっての?その上でそれを言えるほどあんたは他人の事がわかるとでも?」
返す言葉もない。年上の彼女の言葉は正しい。いや、年上だからではなく。強い彼女の言葉は、何者にも怯む事なく、自信に満ち溢れている。
「君は強い」
「そうよ。あたしは、あたし自身が武器よ」
あんたは?と問いかける声は、少しだけ柔らかいように感じて思わず顔をあげる。
サフランは、強者の笑みを浮かべていた。
「他人を守る服ばっかり作ってるからそんな体たらくなのよ」
そうだ。母の教えだ。母は祖母から、祖母はその母から、ずっと受け継がれてきたハリートの服。戦えない女性が身を守るためにと確固たる信念で作られてきた服だ。
自分自身を武器だと言えない女性たちの力になれるように、願って仕立てられてきた服なのだ。その一着を纏うことで堂々と生きることができるように、作り手の祈りと希望が服という形になって女性を守る。
「僕にはそれが武器だ」
自然に口をついてでた、本心。
「つまんない自己満足」
「わかってもらえなくても良い。僕にはこれしかないんだ」
「そうやって守りに入ってるだけのガキに何ができるとも思えないわね」
「皆んなが君みたいに強くあれるわけじゃない」
それは決別。わかりあうための言葉の応酬ではなく、自分の主張をぶつけ合うだけの、決別宣言。
衆目を集めながらもただ意地を張るだけのように、互いに譲らず、そうしてサフランと喧嘩別れのように離れた後、オレガノは隣町の任された店へと移り住んだ。
新しい職人たちは義母の実家である店から送り込まれ、オレガノは一番の年長者として彼らをまとめる役を務めた。満足に糸を撚ることもできない子から独自の癖が抜けない子まで足並みは揃わず、工房はお飾り状態だと位置付けられているのだと分かったのは一月後。店に並ぶ商品は本店から送られてきてはいたが、それも初めのうちだけ、経営は義母の実家が握り、半年もすればオレガノが作る服は棚の端に追いやられた。
丁寧に時間をかけてどうする、と店を切り回す壮年の店長は笑った。丈夫な服を作れば、それだけ新しい服が売れないではないか。修繕する機会も減ればお代を回収することもできない。手間隙をかけた高価な一着を売るより、単純に手に入る一着を大量に並べることで、それを着る人間が多くなり、そこここで宣伝してくれる。店の名は確実に広まる。そう主張する店長は、「何のために服を作るのか、考えなさい」と言った。
呆れて二の句が告げないオレガノの様子を勘違いして、「わからないか。店のためだよ」と宣うのには呆れさえも通り越した。
「店が繁盛すればそれだけ手広く服が作れる。多くの服が世に出れば値段が下がり、今までお洒落義を贅沢品だと言って手を出さなかった人間も購買者になれるだろう。店が儲かると言うことは、回り回って世のため、人のためになるということなのだよ。そこまで見通せないから君はいつまでも古臭い職人気質のままなんだ」
困ったことだね、とわざわざ工房で他の職人に聞かせたのは、その方針を末端まで行き届かせるためだろう。根気よく教え込むオレガノのやり方を、それは効率が悪いと若い職人たちに気づかせるための一幕に打って出たと言うことか。
「わかりました。これからは、それがこの店の方針ということなんですね」
「おお。分かってもらえて嬉しいよ」
「僕のような古臭い職人気質の人間がいてはご迷惑でしょうから、ここを辞めます」
「何?」
そんなつもりで話をしたのではないが、と店長は大袈裟に驚いて見せてから、まあ君からそう言い出したことは残念だよ、と残念さのかけらもない、引き止める気などさらさらない薄い別れの挨拶をくれた。
家に戻る場所はない。
わずかな資金さえもない。
頼る人もいない。
身の回りの簡単な荷物だけをまとめて、町を出る。
当てがあるといえば、実家にいた頃に時々布の買い付けに行っていたいくつかの綿農家。素知らぬ縁では無し、頼み込めば住み込みで働かせてもらえないだろうか、という微かな希望を頼りに、ただ街道を行く。
懐に忍ばせた裁縫道具。
(僕の武器はこれだけだ)
あの日彼女に向けた台詞は、そのまま自分の身に返る。
若手の職人たちを引き連れることもできず、店の方針を変えさせることもできない。
(何が武器だ)
こんなになってまで、守ってきたものは何だ。
分かってもらおうともしないで。
(つまらない、自己満足)
ぽつり、ぽつりと雨が地面に水玉を描く。こりゃ大振りがくるぞ、と同じ街道をいく誰かの声。行く先の空は晴れ渡っている。後ろを振り返れば、黒い雲が追いかけてきていた。
まばらだった人影が、雨足に追い立てられるように一群になる。
大粒の雨に痛いほど体を叩かれながら、木の影や身を寄せられそうな岩場を探して走り。
もつれた足が二度ほど空をかいて転びそうになった時。
その腕を後ろから強く引っ張られた。
「サフラン」
激しい雨音に再会の罵声はかき消された。
<3>
その後、サフランは強引にオレガノの身を囲った。
「あんたは狭い世界でしか生きてこなかったから、そんななのよ」と言い、オレガノを自分の旅に同行させる。国の境さえもその腕一本で超え、向かう所敵なしの強さであらゆる脅威をねじ伏せていく。手も足も出ないオレガノにとってそれはただ目の前を流れていく暴力でしかなかったけれど、いつしか彼女の暴力に巻き込まれても恐れることもなくしっかりと両足で立ち会えるようになった頃。
彼女の生まれた村に居を構えた。
彼女との旅はそこが終焉。理由はただ一つ、彼女がオレガノの子を身籠ったからだ。
かねてから「子供はいらない」と主張していたサフランは、当然のように子を堕ろそうとした。それを必死で止めたのはオレガノの、父としての自覚だろうか。
「僕が守る。その子が、君の足手纏いにならないように、僕が育てる。君と同じ強さを手にするまで、僕が責任をもつ」
旅先の予期せぬ体調不良が妊娠だと分かった夜、診療所で必死に訴えるオレガノを冷めた目で見ていたサフラン。オレガノの父としての能力など頼りにしていないことなど明らかだったし、伴侶として信用もされていないと痛感したが、どうあっても彼女の決断は間違っていると思った。
「君が言ったんだ。僕は狭い世界しか知らない、って。君だって同じだ。戦うだけの世界しか知らないじゃないか。強さを持って生まれて当然なら、そうでない弱い人間は生きていけるはずもない。けど世界はそんなふうにできてない。弱い人間がこれだけ多くの生を勝ち取ることができているのは何故なのか、君はそれを知るべきだ」
それが彼女をうまく説得できたのだとは思っていない。いつものように、…それこそ出会いから、何度も振り回されてきた彼女の気まぐれが、それだけが自分と彼女の縁を繋いでいる現実。この時も「くそ生意気だ」「偉そうに言わせとくのが腹立たしい」と不機嫌そうにオレガノに背をむけてその夜を明かした朝、産んであげるわ、と言った。
「勘違いするんじゃないわ、あんたに二度とあんな事を言わせないためよ」
具合が悪いだろうに、顔色も冴えないというのに、強気に笑みを浮かべてオレガノにそれを言ったサフランを見て、オレガノは生まれてくる子は彼女に似るのだろうと確信していた。
<4>
短いようで決して短くはなかった、あの日々。
産むなら生まれた村で、と言ってきかないサフランを連れての旅は常に彼女と腹の中の子を気遣うことで精一杯、何の余裕もなく、時には「どっちが身籠ってるのか分かったもんじゃないわ」と過保護にすぎるオレガノを鬱陶しがるサフランを宥めて宥めて、ようやく彼女の家に落ち着くことができたのはもう臨月も間近の頃。
そこから子が生まれるまではあっという間、慣れない村での生活も、父親として初めての経験も、何もかもが掴もうとした先から指の間をすり抜けていくような目まぐるしさだった。
あれから30年近く経つ今、思い出そうとしても思い出せない。それでも出産に立ち会ったオレガノが強烈に覚えているのは、命懸けで子を産むサフランの罵詈雑言。何度も村の女性たちの出産に立ち会ってきたという産婆でさえも「あんたそれはちょっと」と引いたくらいだ。それでも構わなかった。産んでくれ、と言ったのは自分だ。代わることができない以上、やれることはなんでもやる。そう覚悟したのだ。いくらでも罵っていい、好きなだけ毒を吐いて呪えばいい、だから頑張れ。痛みに叫ぶ彼女の腕を掴んで叫び返していた時間。
子が生まれた後、一番やつれていたのは産婆だったかもしれない。「あんたらほんと村で一番凶悪な夫婦だよ」と恨言を残して帰っていく彼女に頭を下げまくっているオレガノに、豪快に笑ったのはサフランの母親。
「最凶、上等。とんでもない娘にとんでもない婿どのだ。気に入ったよ」
彼女もまた冒険者として近隣で名を馳せた女傑。彼女に認められて、オレガノはようやく父親になるのだ、と心底から感動したことを覚えている。そうして母親となるサフランもまた。
あれだけ子供はいらない、と言っていたのに生まれた子を抱いて、乳を与えて、それまでオレガノに呪詛を吐きまくっていたことも記憶にないらしく、ほんのわずか前の地獄の悪鬼の形相もどこへやら、生まれた子にもまして愛らしい表情を見せた。
「すごいわ、こんなに小さいのにちゃんと動くわ」「人形みたいなのにどこから声が出るのかしら」といちいち感動している様子をオレガノに報告するのには、少女のようだった。
不思議だ。普通は、母親の顔になるんじゃないのか。と思いながら、無邪気な幼い女の子の様になってしまった妻を支えて、初めての夫婦の共同作業で一人娘を育てた。
まるで普通の夫婦のように、戦いの日常とはかけ離れて、穏やかに娘の成長を見守ること3年。
3年とはよく持ったね、と義母が感心していた。サフランの血は、戦いへの情熱を消した訳ではなかった。
穏やかな日々で、双子が生まれた。おそらくサフランは村を出たがっていただろうと知りながら、それでも初めての娘を可愛がる様子にはこのまま母親として落ち着くのではと思っていた矢先。
生まれた双子がせめて男子だったらなら、また違った子育ての新鮮さが彼女を引き止めたかもしれない、と考えることはある。いやそれも、ただの想像か。産後の肥立も上々だね、と産婆にお墨付きをもらった時期から、彼女は村を出ることが頻繁になり、数日が数週間に、ひと月が半月に、やがて年単位で、いつしか村を開けている期間の方が長くなって言った。
村に残していく娘たちには「あんたちが強くなったら連れて行ってあげてもいいわ」との口癖。それは本気だったのか、或いはその場しのぎだったのか、と考えてしまうけれど、彼女を止められる言葉をオレガノは持たない。
「この村の女は皆そうさ」と言っていた義母も気まぐれに村を出てそのまま永遠に旅立った。
強くなるしかない。母を恋しがる娘たちは、強くなることでしか母親を振り向かせることができない。だからオレガノにできることは、強くなりたいという娘たちを信じ、戦いに身を投じ、疲れて帰ってくるときに安心することができる家を守ること。
ずっとそうしてこの村で生きてきた。
母親にも父親にもなれるよう、ずっと彼女たちに寄り添ってきたつもりだ。
およそ30年という時間。
始まりはあの日。ただ惹かれたのは、人の強さ。自分にはない、圧倒的な力。この村で過ごした月日は、親としてのオレガノの人生を問う。果たして四人の娘たちにとって良い父親だったのかどうか。
末の娘が、自分の力で仲間を得た事を思う。彼女もまた、自分だけがもつ力を頼りに、世界へ向き合うように、外へと出ていく。
この村の女は皆そうさ。
義母の言葉を裏付けるように、娘たちが外に出てしまった後。
オレガノが愛した、最強の力をもつ彼女が帰郷する。
<5>
すっかり歳を重ね、白髪も目立つようになって、時々若さを思い出しては、当時はそれがどれだけ恵まれていたかなんて考えもしなかったな、と針仕事で痛む肩と背中をほぐすように軽く体を動かす。思ったより凝り固まっていた肩を回して、ガツ、と変な音がしたと同時に耐え難い痛み、その場にうずくまるオレガノに。
「やだ、じじいみたいな声出さないでよ」
と、まるで日常の続きのように、サフランが歩み寄ってきていた。
最後に帰ってきた日の、そこからまた出ていくまでの時間の続きのように、自然に。
彼女ならいつもそう。不在の空気を埋めるなんて、考えたこともないだろう。残されるのはいつもオレガノの方だから。不在を溜め込むのは、それが身に沁みるのは、いつも残されるほうだ。
だから、いつも「おかえり」は言わない。ああ。つまらない、意地だ。
「仕方ないですよ、もうじじいなんですから」
「冗談じゃないわよ。それでババアって言われるあたしの身にもなりなさいよ」
昔から変わらない態度で、うずくまっているオレガノの腕を掴んで引き上げようとして。
「痛い痛い痛い痛い!!痛い、痛いんですって!!!」
サフランの手を跳ね除け、飛び退るオレガノに、目を丸くする。
「何?怪我でもしてんの?」
「違います、怪我じゃなくて、五十肩なんですっ」
「五十…」
それを聞いてサフランは爆笑する。
「やだ!じじい!本当にじじいだったわ!!」
「だからそう言ってるじゃないですか…」
情けなく痛みの衝撃がおさまるように腕を摩るオレガノに、その腕の反対側からサフランが寄りかかる。
「帰ってきてあげたわよ」
何かいうことは?と、揶揄うように笑みを浮かべて。
ああもう、この人は変わらないな、とオレガノはため息を一つ。
「今からじゃ夕飯はありあわせのものしかできませんよ」
「他には?」
「ああ、娘たちは今、皆出ていますから。呼び戻すのに、少し時間が」
「それで?」
「ええと」
「あるでしょ、言いなさいよ」
「何を」
「聞いてあげるわよ」
今なら。
今だから。
今だけだから。
そんな圧に負けて、オレガノは自分の肩に乗せられた腕に手を伸ばし、下ろさせる。そうして手のひらを合わせる。剣を持つ手と、針を持つ手が繋がる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
まるで彼女とは初めて交わされる家庭の言葉。
やっと言ったわね、とサフランがオレガノの肩に額を押し当てる。
「え?」
彼女もそれに気づいていたのか。
気づいていて一度も指摘しなかったのか。
オレガノの問いかけにサフランが笑う。
「それを聞けたからもういいわ。旅は終わりよ」
もう出ていくことはないわ、と言われて。
まさか、と彼女を覗き込む。
相変わらず、人を揶揄う瞳が微笑んでいる。
「僕がそれを言わなかったから、今まで帰ってこなかったとでも?」
「さあ、どうかしら」
でもこんなのも、いいでしょ?
長い長い旅の終わりは。
こんなふうに終わるのが良いでしょう?
そうやって押し通される。いつも。
本当に自分勝手な人ですね貴女は。
いつも、言葉にならない感情は彼女を抱きしめてしまうのだ。
<6>
その日の夕飯は、何年ぶりかに夫婦二人で。
ありあわせのありったけ料理を、懐かしい味だわ、とサフランが言うことに目頭が熱くなるのは歳のせいか。
そんな自分を誤魔化すように、オレガノは向かい合うサフランのグラスにワインを注いで言った。
「それにしても、どうしてたんです。そろそろ帰る、と手紙をもらってから4年は経ちますよ」
「ああそうねえ」
それから音沙汰もなくて何かあったかと心配してたんですよ、といえば、嘘ばっかり、と鼻で笑う。
「今更このあたしに何かあると心配される不安要素でも?」
「昔ならいざ知らず、ババアですからね」
「言うわね、くそじじい」
「何かあったんですか」
「そうね、ちょっとね、手土産を用意していたのよ」
「手土産?」
尋ねるオレガノに構わず、サフランはワインをあおって、ふう、と満足そうな息を一つ。
「ちょっと高級なワインね、これ」
「ミオの手土産ですよ。とっておきに開けようと思っていたのに」
勝手に倉庫から持ち出してきたのはサフランだ。
「いや、そうじゃなくて」
「ハリート衣料品店」
その名。
とうの昔に捨ててきたはずの実家の名を出されて、オレガノの心臓は跳ね上がり、思考は停止する。
今ではもうすっかりコハナ村のオレガノ、としての名が知れ渡っている。それでもやはり、その名はしっかりとこの身に刻み込まれているのか。
コハナに居を構えてから今まで、妻が、娘たちがいつ戻っても良いように、1日たりとも村を出ることはしなかった。その為に買い付けは馴染みの行商人から、その縁で売り付けもそれに頼りっぱなしだったが、そのうち彼らはいくつかの注文も取ってきてくれるようになり、数年で安定した稼ぎになっていった。娘たちも大きくなり、贅沢さえしなければ何不自由のない暮らしだったこの頃。
やたら遠方から訪ねてくる人があったのは事実だが。
「それ、あたしよ」
とサフランが言う。
「コハナのオレガノという職人が作る服は、唯一無二だ」
「はあ?」
「って言ってやったの。ハリート衣料品店で」
「なっ、なんでそんなことを!」
「なるほど、ここがあのオレガノが修行を積んだ店なの。さぞや素晴らしい逸品を勧めてくれるんでしょうね、って言うとそりゃまあ、どこぞの貴婦人が着るような豪勢な服を出してくれるわけよ」
よかったわね、まだあんたの名前、忘れられてないみたいよ、なんて、しゃあしゃあとしているサフランの意味がわからない。
「ま、このあたしに買えない服なんてないし?買ってあげるわよね、言い値で」
それを着て旅をするとね、と続くことには。
「まあモンスターと乱闘になってすーぐボロボロになるのよね、これが」
値段のくせに駄作だわー、との扱き下ろしには思わずテーブルに突いた手に力が入り、身を乗り出すようになっていた。
「なりますよ普通!!貴婦人はモンスターと乱闘なんかしないし、そういう想定で作られていない服なんだから!ボロボロになります!」
「あんたが作ってくれた服は、そうはならないわ」
「それは」
身を守る服なんていらない、というサフランのために作った服だ。
もう母親になったのだから少しは身だしなみも考えてください、と言って作った服。無理矢理着てもらうためにも、彼女の動き、性格、扱い方、全てを考慮して布地から選んで仕立てた服なのだ。
それは娘たちに対しても同じ。
戦うことも身を守ることも同時に成り立つ、というオレガノの主張だ。
それを町の衣料品店の一着と同等に語るのは違う、と諭すオレガノの言い分を片手を振って面倒そうに遮るサフランの話。
「7、8年前かしら。もう一人で危険を冒すのも大して興奮しなくなって、そろそろ潮時か、なんて考えて頃だったわね」
暇潰しに傭兵としての仕事をいくつか受けているうちに、今の自分は一人冒険するより、傭兵として誰かを確実に守り抜く方が血が沸ると感じた。そうして血の沸き立つまま高給な仕事を立て続けに引き受けるようになり。
「あたしに護衛を依頼してくるのは、令嬢や貴婦人たちよ。普段は彼女たちと同じような服を纏って侍女のように振る舞いながら、いざというときに戦うの。それを目の前で見ていた彼女たちが何よりの承認だわ。オレガノ=ハリートの作る服は身を守るための服だ、ってね」
彼女たちは欲する。サフランの服を。
あれからハリート衣料品店は、主に手広く商売の方で成功し、次々と同業者を囲い込んで、今や名のしれた大型ギルドにも匹敵するほどになっていた。
その地域では押しも押されもせぬ名だたる衣料品店、ハリートの服を求めた令嬢や婦人は、実際にそれを手にして失望する。
欲しかったのはこんな品ではない。これはあなたの服とは随分違うわサフラン。
「そう言われたから、私の服を作っているのは店ではなく、オレガノ=ハリートという職人よ、って教えてあげただけよ」
これまでの流れを語って聞かせるサフランは大した事ではないと言うけれど。
オレガノの側ではそうも言っていられない流れだ。
確かに大型の注文が増えた。おそらくはお抱えの服職人を持たない階級の、上品な仕立てを要求され「材料ならこちらが揃える、品さえ良ければ期日などいくらでも待つ」なんていう寛大な注文も数知れず。主には女性の旅装。何代でも継いでいけるような高級な生地を大量に送りつけてきて好き勝手な要望を並べて帰っていく。
「あれらは全部、君が?」
「全部かどうかは知らないわね。あたしはただ、護衛した奥様やお嬢様たちが喜んでくれたのを知ってる、ってだけよ」
そうそう、衣料ギルドでハリートの名は年々だだ下がりみたいよ。内部は火の車だって噂もあるわ。
なんて素知らぬ風に言われて、オレガノは自分の中で手に負えないほどの感情が揺さぶられていくのを感じながら、知らず立ち上がっていた。
「どうしてそれを君が知ってるんですか」
「あら、この数年あたしが活動してたのはあの辺りだった、ってだけだわ。いやでも聞こえて来るんだもの、そんなこと言われたって」
はぐらかそうとするサフランに、真っ向から挑む。
「ハリート衣料品店を陥れるために、ですか?」
知らず硬くなった声音、口にするのにも覚悟がいるその核心にもサフランは揺るがず。
「結果的に、そうなっただけよ」
あたし何もしてないわよ、というサフランには、嘘だ、と心の中でつぶやく。
彼女の話から推測されるのは、そういう事だ。
あえてその地域で活動して、付かず離れず、今聞かせてくれたような一連の流れを何度も繰り返したのは想像に難くない。それも、彼女一人の仕業ではないだろう。サフランの腕を慕う女性戦士は各地で活動している。サフランから仲間のために服を送ってくれ、と依頼されたことも今なら合点がいく。
自分はそんなことも知らず、外で活躍する女性たちのために、と服を作っていたのだ。
実は彼女の策に加担するために。
「なんてことを」
思わずこぼれた感情は、声を震わせた。
「もうとっくに関係のない身になったんですよ。今なら、理想だけでやっていけると思っていた自分を、若いだけで何も知らなかったと言うことだってできる。一つの屋号を維持していくことがどれだけ大変かわかる、職人たちを抱えて常に利益を上げなければ立ち行かないこともわかる、全部がわかるようになったんです。もうあの場所に遺恨はない。それをどうして今更。店の評判を下げてどうしようと言うんです。職人たちは、弱い者から解雇されて露頭に迷うんですよ?僕は、ハリート衣料品店に潰れて欲しいなんて思っていない」
サフランのやっていることは弱いものいじめと同じことだ。
そんなオレガノの動揺に対して、サフランは平然と言い放つ。
「あたしだって、潰れてしまえ、なんて思っちゃいないわ」
このあたしが、つまらない義憤や私怨なんかで動くとでも思ってるなら、何十年連れ添ってきたんだか。呆れるわね。と芝居がかった風に斜に構えて。
「あたしが気に食わないと思ったから、そうしただけよ」
「何が、あの店が君に何をしたって言うんです」
「店は関係ないって言ってるでしょう?あたしはあたしのやりたい事をやりたいようにやるの。その結果、周囲がどうなろうと全部あたしのせいよ。あたしのせいで露頭に迷った人間があたしを刺しに来るなら来れば良いんだわ。真正面から受け止めてあげるわよ。それで返り討ちにあうなら、そいつが弱いせい。ありえないけど、あたしが討たれるんならあたしが弱い、ってだけだわ」
それだけよ、と言い切る強さ。
彼女の世界は、強さが全て。この村では、それが全て。何十年とこの村で生きて、どうしてそれを理解しないのか、とサフランはオレガノを責める。
「あんたはいつまでもそう。いつまで経っても、そうやって弱者の立場に寄り添うんだわ」
言葉で責めていながら、その声は柔らかい。仕方がないわね、それがあんたなのよ、と言われて唇を噛む。
「追い出された場所にもそうやって憐れみをくれてやるっていう、その心境は何なわけ?全く理解できないけど」
それがあんたなのよ、と重ねてオレガノの心を抉る。
頭の隅では「評判が下がった」と聞いて「ああそうだろう」とどこか溜飲を下げた自分がいたのではないか、と歯噛みする。実家から出され、工房の職人を任され、僻んでいた昔の自分。自分を不幸と位置づけ、新しい店の方針を跳ね除け、飛び出したのは若さ故の無知だと苦く思いながら、自分を追い出した場所がその過ちに崩れ落ちたのだとしたら、その苦さを和らげられたように感じてしまった。遺恨はない、としながらも、本音は醜い。それから目を逸らしてしまう自分には彼女を責める資格はない。
項垂れるオレガノに、サフランが再び口を開く。あたしが気に食わなかったのはね、と続く彼女の本音。
「この先、あんたの元に戻ったとして、そんな様を一生見せられるのかと思ったらうんざりした、ってだけのことよ」
全部があたしの為、とサフランが言う。
旅をやめるのも、村に戻るのも、自分で決めたこと。夫や、娘の為に、なんて考えない。あたしはあたしのやりたいようにやるのよ。結果はそれについて来るだけのこと。だから誰のせいにもしない。
「あんたももう、誰かの為だとか、責任だとか、過去だとか、そんなつまらないものにこだわらないで、自分で自分のやりたいようにやれば良いのよ」
最後の娘が村の外に出たんでしょう?と言われて、オレガノは顔をあげる。
ミオが旅立った事は手紙で知らせた。そのことに返事はなく、服を仕立ててくれ、という内容の手紙が返ってきた時には、子育てに関わっていないサフランには娘たちの成長は特に興味もないことなのだと諦めていたが。
「もうあたしの足手纏いになる娘はいないわ。この村では、外に出ていくというのはそういう事よ。あんたは、責任を果たした。このあたしに子を産ませた責任は、もうどこにもない。父親としてお役御免なのよ」
さあどうするの?と問われて、愕然とする。
「どう、する、とは?」
「父親として、家長として、妻の帰りを待つ夫として?もうそんな隠れ蓑は通用しないわね。自分の生き様を何かのせいにするのはガキのすることよ」
サフランが、オレガノの手に手を重ねる。
「このあたしが戻ったからにはそんな無様を見せないで欲しいわ。こんなクソジジイにこの先も何かあるたびに、ガキだなんだと言わなきゃならないあたしの身にもなりなさいよ」
それがサフランの動機。この一連の、壮大な根回し。
全てはオレガノのため。
「それが、手土産よ。あたしの。根回しに7、8年かかったんだから、無下にしたら許さないわよ」
夫婦となったあの日から今日まで、離れていた時間の方が長い。
家を開けてばかりで、娘たちの成長もよく知らない。自分のやりたいようにやるだけよ、という。
「貴女は本当に自分勝手な人ですね」
根回しに7、8年、だって?そんな前から、もう自分のための旅じゃなかったと言うなら、そんなことより帰ってきて欲しかった。ハリートの名のために、なんて、そんなことはかけらも望んでいない。望んだのは、娘たちの事。特に長女のシオなんかは、常にサフランに認められることを切望して、もう自分自身を愛おしむことさえそっちのけで強さばかりに邁進していたのだ。それをそばで見守るだけしかできない父親の無力、この村に置いて母親の強さがもっと娘に寄り添うものであって欲しかった。双子は特に母を求めず、末娘はその存在を認識さえしていないだろう。そんな娘たちのためにもっと早く帰ってきてくれていたなら。心の中でそう詰りながら、失望することができない。
娘より、オレガノを優先したサフランに今抱くこの感情は失望ではない。
ああ父親としては最低だ。妻にそんな策略を許した夫としても実家に顔向けできない。それでも。それでも、だ。
「そうよ。自分勝手。そんな女を選んだのはあんたよ」
オレガノの手に重なるサフランの手が、強く力をこめる。
「あんたなのよ」
「ええ、そうです。ずっと、憧れていた。そんな生き方が眩しかった。自分にない力を持つ貴女を誇りに思っていた」
「可愛くないわね。過去形にする気?」
不満そうなそれには、おもわず笑ってしまう。自分勝手で、いつでも強気で。自分が一番正しくて、力こそが正義で。そう言い切ることのできる強さが本当に羨ましくてたまらなかった。
「今はこうして手に入れることができたので」
と、サフランの手を握り返せば、してやられた、というように一瞬呆気に取られた表情を見せたサフランが鼻白む。
「あんたって本当、そういうところが可愛くないって言うのよ。このあたしにそんな事を言うのはあんたくらいよ。昔からちっとも変わってない」
「僕が?何か言いましたか」
言ったわよ、と手の甲を抓る。そんな仕草は、駄々をこねる少女の様。
「僕なら君を守る服を作れる、だから作らせてくれ。って。冗談じゃないわ。あたしを守るなんて言った男はあんただけよ。それが侮辱だともわかってない面で」
「そんな。侮辱したつもりなんてありませんよ」
「それが腹立たしいったら」
何一つ認めたくなかったから服従させるためにそばにおいた。絶対にあんたの言い分を負かしてやろうって、それだけよ。自惚れるんじゃないわ。あたしは守られなくても強いのよ。そう言いながら、ここまで連れ添ってきたのは。
「強さこそが全てよ」
「君はそうなんでしょうね」
「あたしだけじゃない。あたしだからなんかじゃない。弱い人間だって当たり前にそうあるべきなのよ」
強くなければ生きていても意味がない。ただただ糧を差し出して命乞いをするだけの一生のどこに生きる意味があるというのか。
そんな惨めな生き方をあたしは認めない、と誰からも虐げられることのない頂点に君臨している彼女はそこからオレガノを見下ろす。
「それでも、そうして力を持たない弱い人間を生かしているのがあんたたちみたいな人間なんだって、認められるだけの服は作ってもらったわ」
息をのむ。
そんな台詞を彼女から聞かされるとは、いつ想像し得ただろうか。
いつからだ。いつからか、見下ろしてばかりだった彼女の視線は今や、オレガノの隣にあった。
それが信じられず、ただ驚いて言葉を押し出すことのできないオレガノへ身を乗り出すサフランは。
同じ目の高さで、目線を合わせて、心を通わせるように語りかける。
「だから。ハリートの名はあんたが継ぐものだと思っただけのことよ」
と聞かされて、オレガノはあの日の宣言を胸の内に蘇らせる。
ハリートの後継はヌーノとする。そう言った父。それを飲まされた工房の職人たち、それらの哀れみの視線。何人もが自分を見ていたことを昨日のことのように思い出したのは一瞬。
目の前のサフランの強い視線に、全てがかき消された。
今まで出会った誰よりも強い力でサフランはオレガノをねじ伏せる。
コハナのオレガノではなく。
「名乗りなさい、ちゃんと。オレガノ=ハリートの名を」
誰もが認める服を作る。
与えられた依頼をそのままこなすのではなく、譲れない点は決して引かず、出すべき意思は貫いて、胸を張って仕立てる。その自信こそが依頼主を感嘆させる。それは裁縫の腕だけでは成り立つものではない。一本の信念がこの胸に宿ってこそ、名前と服とが命を持つ。
命を持った服が世界を旅して、広くこの信念を知らしめていく。
オレガノが守りたかった女性たちの意思の元に、服はその名を称えている。
あとはあんたの覚悟一つよ。
自分の為に。
自分のやりたいように。誰に何を言われても構わない。それが自分の為なら、自分で何とでもしてみせる。どんな結果も誰の何のせいにもしない。自分は自分だ。自分勝手に生きていく。それに魅入られた人だけが付いてくる。そんな生き様。
それをオレガノに見せつけたサフランは、儚い母親の姿とは似ても似つかない。
しかし母から受け継いだ芯は、そこにある。
一本の糸が一枚の布になり、人の形に仕上がり、一着の服となる。
服が人を模る。そこに宿る信念が、着る人を守る。守られた人は強くある。だから求められる服を作る。多くの人に選ばれる服を作ること。誰の為でもなく、自分の信念の為に、自分の作りたい服を作る。それに魅入られた人が、その名を広く世界に知らしめるだろう。
そんな生き様を課しなさい。それが母との約束。
「わかりました」
幼い日に、祖母に、母に宣言した台詞。
一字一句違わず、目の前の彼女に宣言する。
「オレガノ=ハリートとして、ハリートの名に恥じない服を作ります」
もう逃げない。
迷いはない。
それは。
「君が信条を与えてくれたからですよ、サフラン」
ありがとう、と強く握り返す手には満足そうな笑み。
母にも妻にもなれない、この村の女は皆そうさ、と言った義母は何を思って言ったのか。
この結末をも想定していたかどうかも知れない。
自分は娘たちにすまないと思いながらも、村を出ていくサフランを引き止めることができなかった。純粋に、その強さに惹かれ、魅入られた果てにこの村に落ち着いた身の上で、それ以上何ができただろうか。
娘にも、実家にも、白状しながら許しは乞わない。
彼女と運命を共にすると決めた日から、全てを受け入れてきた自分が作る服だけが是非を問う。その覚悟を持って、ハリートを名乗る。
ハリートの名を繋いでいくために。
<7>
オレガノは、順に家を巣立っていった娘たちを思う。
彼女たちもこんな思いを抱いて世界へ身を投げたのだろうか、と、村の女性たちへと思いを馳せる。
自分の力を信じて、時には心折れることも、敗北も知りながら、それでも信じるものは自分の力一つ。何者にもなれない。ただ自分の生き様を世界に問う。それは誇り。
時に立ち直れないほど打ちのめされても、誇りをかけて、自分に向き合う。
「強いな」
そうして生きていく彼女たちを幾人も見送ってきた自分もまた、彼女たちに教えられることばかり。
この村の女は皆そうさ、と言うのは義母だけではない。みんな、自分勝手に生きていく。誰のことも顧みない。だから残された者たちは、その背中しか知らない。決して振り向かない背中は、そのために凛々しくあれ。
「そうよ。このあたしが付いてるんだから。あんたは何も恐れることはないはずよ」
だから自分の人生をめちゃくちゃに振り回せばいい。
そう言って笑うサフランの帰郷は、娘たちに知らせた。
程なくして、四人の娘たちは戻ってくるだろう。
彼女たちが母親に何を思うのかは知れない。
それでも、留まるのは一時。きっとすぐにまた出ていくのだろう。彼女たちの世界は、もうオレガノが守るものではない。
それを突きつけられて自分もまた、世界へと出ていく覚悟を一つ。この手に自分勝手な護り手を得て、オレガノ=ハリートの世界は強くある。
<了>