晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

小休止Ⅱ。

2008-02-16 19:09:58 | 日記
 父が日本のふるさとの地にたどり着いたのは50歳のときである。当時人生50年といわれた時代であるので、すでに自分の人生は終わったと思ったに違いない。

 田舎町の役場からお勤めの誘いがあった。そのとき、これから育ていかなければならない子供たち4人を抱えていた父の答えは「もう定年に達するから」といってありがたいお誘いを断ってしまったのだ。母はこの一件を何度となく非難していた。

 その後、父は92歳まで生きながらえた。実に見事というか60年近くも自分の思うまま、これといった勤めも持たずに永らえたものと母の苦労を思いやるものである。

 父の気持ちも分からないではない。朝鮮府庁に勤め、後に知ったのだが麻の栽培指導のために、かの地へ渡っていったのである。帰国後は、同僚たちと浦安埋め立ての建議書を持って東奔西走、その夢も実らないまま年齢を重ねてしまった無念さがあったのかもしれない。

 人呼んで好々爺、悪く言えばお人よしの爺さんでしかなかった。しかし、確かに農業関係、特に東洋蘭から始め野草類の知識は相当のものであった。私の同級生など農業を専攻した連中も父に手ほどきを受けたといっていたのが思い出される。

 よき時代であった。人間の生き方として何を如何選ぶべきなのか。如何に生きるべきなのか。私もそんな年齢になってしまった。

ちょっとお休み。

2008-02-16 18:12:34 | 日記
 母は、着物に執着心を持っていた。自分がそれなりに人に教えるほどの技術を持っていた関係か、裁縫特に和服の仕立てについて一家言を持ち合わせていた。

 そんな母が、永年付き合っていた現地人夫婦を見込んでリヤカー一台ほどの着物類、その他金目のものを預けたようだ。

 いずれ戻ってくることを予想してなのか、日本はこのままで終わることはないと思ってのことなのか、金額的にも相当の品物を預けたようだ。

 それが早くも無念の諦めを誘うこととなってしまった。二度もの脱出失敗。捕まるたびに減って行く財産というよりは、当面の生活維持費、全く心細い思いをしたことであろう。

 そのような時、預けておいた財産これにすがろうとする気持ちは当然であろう。ところが、嘗ての使用人は、手のひらを返すように母の要求を放置していたようだ。

 彼らは、すでに何処からかの情報を手に入れていて、日本は完全に敗北したことを知っていたのであろう。

 帰国してもこの痛手はいえることなく、朝鮮人の恨み百年といい、決して朝鮮半島へ足を踏み入れることを許さなかった。