晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

DDTの洗礼。

2008-02-20 10:50:56 | 日記

 やけに明るく、まばゆいばかりの春の日差しであった。釜山港に無事入港、上陸すると直ちにDDT(とうの昔に使用禁止となった薬剤)の洗礼を受けた。頭から体中に自動噴霧器によって散布された。その夜からしらみとの戦いはなくなった。

 ありがたかった。しらみ、のみとの悪戦苦闘は、今の人には分からないと思う。布団に入り、体が温まってくると活動を開始する。むずむずから始まり、そのうちかゆくて眠れなくなる。しかし、しばらく我慢の末、疲れからか爆睡してしまう。一晩中ややつらの天下である。大事な血液を吸い取られてしまう。にっくきやつらだ。

 手続き上なのか、船舶待ちなのか数日を釜山港で過ごしたように覚えている。何日かして米軍の上陸用舟艇に乗って下関に向かった。船内でのことは何も覚えていない。この数ヶ月、北朝鮮からの脱出計画に明け暮れ、何回かの拿捕と拘留に近い足止めを経験してきた。その後の平和なひと時を味わっていたのだろうと思う。

 父の故郷に向かう。汽車に乗り関門海峡を通過するとき、ここは海底トンネルだと教えてくれた。それ以来ここを通過した記憶は無い。父が父らしく子供たちに向かって指導教育する姿は、以後消えてしまった。何か自信喪失というか、魂が萎えてしまったような感じが受け止められた。戦前戦後の大きな生活変化、多くの日本人成人の夢を粉々に粉砕してしまった事変であった。

 
我が家では、戦前の話をすることをひどく嫌う家族になっていた。脱出計画の初期段階で、父母は今後の生活のこと、戦争終結後の段取りのこと、また敗戦前のような生活に戻れるという思いをこめて善後策を講じていたはずである。母は着物を大切にするというか、非常な愛着を持って買い揃えていたふしがある。その着物類を始め金目のものを選りすぐって、特に信用して使用していた朝鮮人に預けたのだった。その量も半端なものではない。リヤカー一台分と聞いていた。

 しかし、その信用の置けると思った朝鮮人に見事に欺かれてしまった。二度の脱出失敗を受けて、少しでも持ち帰りたい荷物を補充しようとしたが、手のひらを返すような仕打ちを受けてしまった。何一つ取り戻せなかったようだ。おそらく、人生における最大の過ちにより裏切りを受けて、人間不信に陥ったことと思う。父母と同様子供たちも恵まれていた朝鮮での生活またその反面忌まわしいというかいやらしい朝鮮人たちの仕打ちを忘れたいとしていたに違いない。

 いま、北朝鮮人のことは計り知れないが、韓国人から戦後補償(すでに済んでいるがまだ足りないというのだろう)、日本非難、竹島の領有関係その他悪いのはすべて日本人の仕業のような言いがかりをつけられている。悲しいことである。

 かつて、朝鮮半島も日本の領土として、また同じ日本人として同様の扱いをしてきたはずである。鉄道も学校建設も教育も治安も国内以上の予算を組んで培ってきたはずなのだ。そのほかに、現地に渡ってそれらに勤務し、蓄えてきた民間人の財産もすべておいてきているのだ。その人たちへの補償はお涙程度のものである。少なくとも私は何がどうされたのか全く知らない。父母ははした金であるようなことを言っていたが、その通りだったと思う。

 いずれにして、お隣同士。世は21世紀である。韓国の政権も変わるようだ。初めての日本生まれの大統領と聞く。お互い過去は過去として友好関係を築けないものだろうか。お互いが、いいたい放題では関係は少しも良くならない。