晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

国民学校の一年生。

2008-02-17 14:11:30 | 日記
 私は国民学校の一年生になった。愛犬シロが毎日学校のすぐそばまで送り迎えをしてくれていた。秋田犬より一回り小さく、白いふさふさした毛並みの犬だった。紀州犬だったのかもしれない。

 学校は結構大きく、全校生徒、数百人の規模だったように思う。母の自慢は、朝の全校生行進のときに、私が旗手を勤めていたことであった。おそらくは、背丈が一番大きかったからだと思うが、母は成績が一番だと思い続けていたようだ。

 なにしろ軍国主義の真っ盛り、すでに敗戦の色、濃厚となっていった時期だったのかもしれない。剣(旗だったかも)を右手に持ち、壇上にいる教育軍人へ頭中(かしらなか)する姿は、結構勇ましく、かっこよく見えたのだろう。グランドを一周する行進を今でもはっきり覚えている。授業を受けた記憶はないけれども、校門を入ってすぐ近くにある招魂社への拝礼に始まり、行軍まがいの体力づくりに重点が置かれていたような気がする。

 シロがあるとき、私を迎えに出たまま帰ってこなくなった。家族で探し回ったが、何処にもそれらしき痕跡はなかった。人なつこい犬だったので、だまされて連れ去られたのか。二度とその姿を見ることはなかった。悲しかった。さびしかった。学校へ行くのもいやになったくらいである。しかし、それが現実になってしまった。学校どころの話ではなくなってしまった。

 私は、赤玉旅館の前の広場にいた。少し高いところから、朝鮮人の子供も含め同じ年頃の子供たちへトランプ類を始め自分の宝物の類を投げやっていた。もって帰れない腹いせから、いままで大事にしてきたものを惜しげもなく投げていた。母は、日本に帰ればそんなもの以上のものを買ってやるといっていたが、日本に帰ったときには食料も乏しくおもちゃ類も教科書さえない、無い無い尽くしであった。父母は、平価切り下げと預金封鎖に難渋していたのだ。

 二度目の朝鮮脱出失敗の時にはすでにソ連兵が進駐してきていた。自動小銃を水平に構えたまま、りんごなどの食べ物を見せびらかしていた。怖さを知らない吾ら子供たちはソ連兵に向かったダバイ、ダバイといって食べ物をねだっていた。春が近づいた頃、三度目の正直やっと南朝の釜山港に入った。

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