晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

私の観点(21)・・・どうする原発。

2012-09-19 11:09:07 | 日記
2011年7月    当年73歳


 原子力ファミリーに騙され、翻弄され続けてきた日本

 28年の歳月と高額な費用をかけて建設された「もんじゅ」も1995年5月、ナトリウム漏れを起こし、高温のナトリウムが空気中の水素や酸素と反応して烈しく燃える火災事故を起こしている。「もんじゅ」はプルトニウムを原料として消費した以上のプルトニウムを生み出す、つまり「増殖」するように設計された原子炉であって、かつては夢の原子炉と呼ばれていた。

 しかし、その開発には技術的、経済的困難があり、ほとんどの国において撤退を余儀なくされているという。そんな中で、日本だけがなぜ?継続しているのだろうか。これまでの投資した費用、またその上にこれから必要とする費用を考えると、すでに断念するときを迎えているような気がしてならない。

 福島第一原発において、あれだけの事故を起こしておきながら、未だに原子力は安全だと公然とおっしゃる研究者、関係者が居られることになにか空恐ろしさを覚えるばかりである。いったん事故を起こせば以後数十年にわたって冷却するしか方法はないのである。人間には、核反応を制御する能力も技術もない。それでも安全神話を作り上げ、地域住民を信じさせ、全国に54基もの原発を造ってしまった。これを推進してきたお歴々が、今も厳然と自説を曲げないのは、何たる傲慢さだろうか。

 プルトニウムの再処理にしてもそうである。本家米国、カナダ等は再処理をせずに「ワンスルー方式」をとっているという。そしてプルトニウムは資産ではなくて、負債であるという認識が当たり前の世界になっているのだという。

 MOX燃料を軽水炉で燃やす、いわゆるプルサーマルは,今どうなっているのだろうか。ウラン燃料とプルトニウム燃料を比べるとその毒性は10万~100万倍になるという。六ヶ所村再処理工場だって、無駄な投資だったようだ。これらすべて税金もしくは国民負担であることに腹立たしさを覚える。

 「脱原発」まだ間に合いそうだ。今こそ、すべての原発を廃炉に向けて動き出すときである。それが日本国民の安心、安全を守る道筋ではないだろうか。

 この際暑さも、多少の不自由さも、不便さも我慢する!当たり前のことだろう。

(注)
 政治家も原子力を語るとき、これくらいの勉強はしてもらいたい。権威といわれる研究者、学者の言いなりでは、本質は見極めつかないはずである。何せ村社会を形成していて、反対するものは村八分にあっているではないか。ピーチパーチクやるだけが政治家ではないだろう。本当にむなしい。

私の観点(20)・・・自然との調和、共生を忘れたか教育現場。

2012-09-19 05:19:46 | 日記
 2011年6月      73歳


 夏は林間学校あるいは海の家と通り相場になっていると思いきや、34~35度にもなる炎天下で、中高生660人参加の体育大会を模様した学校がある。開会9時45分、すでに34度を越えていた中、準備体操中に16人もの熱中症者を出してしまった。即刻中止したとの報道であるが、この事例は安易に見過ごすことのできない教育現場の一部である思う。

 まず第一点、なぜこの時期を選んだのか?660人の学生を擁するマンモス校である。中高生を一堂に集めての開催自体無理があったのではないだろうか。勿論、都心にそれだけの運動場を持つこと自体無理がある。会場手配をするにも限られてしまい、どちらかといえば季節外れの確保に走ったのではないだろうか。

 第二点として、なぜこの時期に体育大会なのだろうか?梅雨は明けていないとはいえ夏である。雨は免れたとしても湿度の高い劣悪な環境であることは予測できたはずである。不運にも今日は、梅雨明けを思わせる晴天になってしまった。

 日本国民は、何時から自然を恐れぬ不遜な国民になってしまったのだろうか。四季のある自然、雨をたっぷりもたらす気候、海、こんな素晴らしい山、川、環境に生まれ育ち,教育を受けられる幸せがあるだろうか。そんな環境でも企画次第では悪魔となって襲い掛かってくる。海だって、山だってそうである。

 時は、千年に一度といわれる大災害に見舞われたばかりである。想定外という言葉が氾濫しているが、教育者たるもの、預かる子供たちを安心安全に導く心がけが必要であろう。これから暑さ厳しい季節がやってくる。大いに心してもらいたいものだ。