晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

脱出劇。

2008-02-15 21:13:43 | 日記
 戦争中、北朝鮮においては空襲警報は鳴っても実際爆撃は行われなかった。防火演習、避難訓練等連日実施され、防空壕への非難も何回となく行われたのだが、実際爆撃されることはなかった。米英ソは終戦後の日本の処理についてヤルタにて会談していたのだ。当然のこと米国は北朝鮮を攻撃できない状態であったのだ。これも後になってわかったこと。

 敗戦を前にして、ソ連兵が進駐してきた。敗戦後の日本国内と全く同様、こちらはソ連兵が自動小銃を身構えて町に進駐してきた。

 こんな姿を見ることになったのも、私ども親子6人と行動をともにした6~70人の日本人が3回目の逃亡準備のため赤玉旅館に滞在していた時期に重なるからである。場所は不明だが、3~4階建ての日本人が経営するかなり大きな旅館であった。徒歩で漁港までいける範囲のところだったはずである。汽車に乗った記憶はない。ひたすら砂浜を歩いての逃亡だった。

 一度目の失敗は、雇い入れた漁船に乗り込む直前に民兵らしき集団に襲われてしまった。漁師からの密告かと疑われたが、後の祭り。手荷物をチェックされて金銀宝石からお金まで略奪されてしまった。一時体育館みたいなところへ収容され、後開放された。
 二度目の失敗は、我が家の長女が一行からはぐれてしまい、大幅に到着が遅れてしまったことによる。逃亡は計画は密にして時間等約束事をを間違えることはできない。これが逃亡する側、それを手伝うものとも絶対守らなければならない大切なことであろう。情けないことだが、身内のことまた他の多くの方に迷惑をかけてしまった。

 今回は3度目である。私は8歳、したに3歳の弟が次女におぶわれていた。父母はそれぞれ思いの詰まったリュックを背負い必死の逃亡であった。過去の失敗を繰り返さないためにも闇夜を狙い、15名程度の小グループに分散しての行動をとった。かすかに漁船が目に入ってきた。波の音も、堤防にはじける波しぶきも目や耳に入ってきた。もうまもなく乗船できる。皆安堵の様子、息ずかいが感じられた。

 続きはまた次回まで。乞うご期待。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿