あの土曜日,「幻の磐余池」現地見学会に行くのに車を停めたのが,“御厨子観音妙法寺”の駐車場。
御厨子(みずし)観音妙法寺は、 吉備真備(きびのまきび)が、入唐留学によって学芸を修めるとともに、唐から無事に日本に帰ることができたことに感謝し、735年(天平7年)に善覚律師(吉備真備の子)に命じて観音堂を創建させたことに始まるそうだ。
真備は、西暦716年(霊亀2年)、朝廷から遣唐使の一員に選ばれ、阿倍仲麻呂らと共に入唐留学したが、その年に彼は、日頃信仰していた観音様にご加護を祈り、「唐で学芸を修め、無事日本に戻ってくることができたなら、自分の領地に先祖の霊を祭る建物を造り、仏恩に報います。」と誓ったという。
彼は、唐に18年間留まったが、その間、苦しいことにあうたびに観音の化身が現れ助けられたとか、鬼(阿倍仲麻呂)に助けられて囲碁の御前試合に勝ったとか、クモに助けられてむずかしい詩(野馬台詩)をよんだとかなどの話が伝えられている。
吉備族退潮のあとも、この寺は、観音堂の霊験加護にあやかろうとする人々によって支えられ、盛時には、およそ5万平方メートルの境内に、北室院、南室院等の塔頭寺院が並び立ったと言われている。その後、数々の戦乱、火災等にあい、今では、当時をしのぶ建造物はなく、仏像も長い年月を経て作り替えられた。
現在のお堂は、元禄時代に、当観音を信仰する人々によって、焼け残った資材を集めて再建されたもの。吉備真備が書いた「大般若経」は、現在も奈良国立博物館に保管されている。
@“御厨子観音妙法寺”の「みずし」のいわれ
・由来その1
この寺の東側の低地には「磐余池(いわれのいけ)」があったといわれている。
このお寺が磐余池の端の方にあった(水尻にあった)ことから、「みずしり観音」→「みずし観音」となったという説がある。
・由来その2
このお寺が、美しい厨子の中に、観音様を中心にして東西南北(四面)に数々の仏を配置していることから「厨子観音」となり、これに「御」を付けて、「御厨子(みずし)観音」となったという説がある。
御厨子(みずし)観音妙法寺は、 吉備真備(きびのまきび)が、入唐留学によって学芸を修めるとともに、唐から無事に日本に帰ることができたことに感謝し、735年(天平7年)に善覚律師(吉備真備の子)に命じて観音堂を創建させたことに始まるそうだ。
真備は、西暦716年(霊亀2年)、朝廷から遣唐使の一員に選ばれ、阿倍仲麻呂らと共に入唐留学したが、その年に彼は、日頃信仰していた観音様にご加護を祈り、「唐で学芸を修め、無事日本に戻ってくることができたなら、自分の領地に先祖の霊を祭る建物を造り、仏恩に報います。」と誓ったという。
彼は、唐に18年間留まったが、その間、苦しいことにあうたびに観音の化身が現れ助けられたとか、鬼(阿倍仲麻呂)に助けられて囲碁の御前試合に勝ったとか、クモに助けられてむずかしい詩(野馬台詩)をよんだとかなどの話が伝えられている。
吉備族退潮のあとも、この寺は、観音堂の霊験加護にあやかろうとする人々によって支えられ、盛時には、およそ5万平方メートルの境内に、北室院、南室院等の塔頭寺院が並び立ったと言われている。その後、数々の戦乱、火災等にあい、今では、当時をしのぶ建造物はなく、仏像も長い年月を経て作り替えられた。
現在のお堂は、元禄時代に、当観音を信仰する人々によって、焼け残った資材を集めて再建されたもの。吉備真備が書いた「大般若経」は、現在も奈良国立博物館に保管されている。
@“御厨子観音妙法寺”の「みずし」のいわれ
・由来その1
この寺の東側の低地には「磐余池(いわれのいけ)」があったといわれている。
このお寺が磐余池の端の方にあった(水尻にあった)ことから、「みずしり観音」→「みずし観音」となったという説がある。
・由来その2
このお寺が、美しい厨子の中に、観音様を中心にして東西南北(四面)に数々の仏を配置していることから「厨子観音」となり、これに「御」を付けて、「御厨子(みずし)観音」となったという説がある。
>やっぱりならは京都よりよっぽど面白そうです。吉備族・・・
写真のお寺から北西の方角(三輪山の方)へ歩くと,すぐにある集落が桜井市吉備なんですよ!
>またまた行きたくなるじゃありませんか。
さすが年末、来年に繋がるお言葉をいただきました。
来年も宜しくお願いします!
>お師匠様の人差し指に止~まったぁー♪イヒx^。
私も留まった!