九度山の真田庵を見学しながら思い出したのは,あの有名な話。
【関ヶ原の際に西軍に加担し、死は免れたものの、幸村は父昌幸と共に九度山へ配流された。やがて昌幸も亡くなり、寂しく暮ら していた幸村であったが、大坂方と家康の対立が深まり、一触即発の雰囲気となってきたときのことである(大阪冬の陣直前)。
幸村が大坂城に入城すべく準備しているとの知らせを受けた紀伊国主・浅野但馬守長晟は、幸村の在所近辺の百姓を集め、「世情の騒がしいときであるから、幸村が大坂に入城することもあろう。油断せぬように」と申しつけた。
それを早くも察知した幸村は、「父昌幸の法要につき高野山から僧を呼び七日間の仏事を執り行う」と言いふらし、付近の庄屋・年寄・百姓らを多数招いて法要を営んだ。
数百人もの人々が幸村の屋敷に集まり、一日飲食し て過 ごし、みな酒に酔いつぶれて前後不覚に眠り込んでしまった。
その隙に幸村はかねてから準備していたとおり、遠来の庄屋などが乗ってきた馬をみな拝借し、あっという間に大坂へと脱出した。
寝込んでいた者たちが目覚めると、もはや家には誰一人いない。
追いかけようにももはや術はなく、仕方なく領主に事の顛末を報告した。
これを聞いた長晟ははたと手を打って「そうか。真田ほどの者を百姓風情に止めろと命ずることの方がよっぽどおかしいのだ」と言い、特に百姓たちへのお咎めもなく、また後々も何も言ってこなかったという。】
あの日,幸村はどこからどうやって大阪へと脱出したんやろうか?
そんなことを思いながらの九度山を散策。
見つけたのは,真田庵から東へ約200mにある「真田の抜け穴」。
発掘調査の結果,この穴は古墳の石室やというんやけど・・・
「写真;真田の抜け穴」
【関ヶ原の際に西軍に加担し、死は免れたものの、幸村は父昌幸と共に九度山へ配流された。やがて昌幸も亡くなり、寂しく暮ら していた幸村であったが、大坂方と家康の対立が深まり、一触即発の雰囲気となってきたときのことである(大阪冬の陣直前)。
幸村が大坂城に入城すべく準備しているとの知らせを受けた紀伊国主・浅野但馬守長晟は、幸村の在所近辺の百姓を集め、「世情の騒がしいときであるから、幸村が大坂に入城することもあろう。油断せぬように」と申しつけた。
それを早くも察知した幸村は、「父昌幸の法要につき高野山から僧を呼び七日間の仏事を執り行う」と言いふらし、付近の庄屋・年寄・百姓らを多数招いて法要を営んだ。
数百人もの人々が幸村の屋敷に集まり、一日飲食し て過 ごし、みな酒に酔いつぶれて前後不覚に眠り込んでしまった。
その隙に幸村はかねてから準備していたとおり、遠来の庄屋などが乗ってきた馬をみな拝借し、あっという間に大坂へと脱出した。
寝込んでいた者たちが目覚めると、もはや家には誰一人いない。
追いかけようにももはや術はなく、仕方なく領主に事の顛末を報告した。
これを聞いた長晟ははたと手を打って「そうか。真田ほどの者を百姓風情に止めろと命ずることの方がよっぽどおかしいのだ」と言い、特に百姓たちへのお咎めもなく、また後々も何も言ってこなかったという。】
あの日,幸村はどこからどうやって大阪へと脱出したんやろうか?
そんなことを思いながらの九度山を散策。
見つけたのは,真田庵から東へ約200mにある「真田の抜け穴」。
発掘調査の結果,この穴は古墳の石室やというんやけど・・・
「写真;真田の抜け穴」
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