自宅から名阪国道針インターの横を通過して柳生へ。
柳生へ行くなら「大和十三仏霊場」の1つである「円成寺」へ参りたい。
大柳生から少し奈良方面に戻ることにした。
8時45分頃に到着。
門前の名勝庭園は、平安時代末期の遺構を残した浄土式と舟遊式を兼備した寝殿造系だという。
その池に映る「楼門」を写真に収めようとするが、なかなか難しい。
池の横にある勧請縄も気になるし・・・
池に浮かぶハスの花の名残が、冬の到来を・・・
もちろん、残っている紅葉も撮りたいし・・・
カメラを持って池の周りをウロウロと・・・
拝観料を払って入山しようとしたら、受付前には待っている人が約3名?
四国遍路のお寺では、9時から拝観ということはなか ったのに・・・
拝観料を払おうとしたら、前にいた若い女性が順番を譲ってくれた。
何故?
受付で「大和十三仏霊場」の御朱印のことを聞くと、本堂で行っているとのこと。
本堂へ行き御本尊を拝んだ。
ご本尊は、藤原末期の国重文「木造阿弥陀如来座像」で、坐高145.4cm、九重の蓮華台座に座り、光背に宝相華唐草透彫りが施されていた。
先ほどの若い女性は、私の横で正座し真剣に御本尊を眺めている。
その後、彼女は、ご住職となにやら打ち合わせ。
電気の延長ケーブルと脚立が出て来て、本堂の柱に描かれている絵に対し調査?が始まるような様子?
私は本堂を出て境内の散策へ。
久々の「円成寺」はええとこやった。
@忍辱山円成寺
柳生街道随一の名刹。756年(天平勝宝8年)聖武上皇と娘・ 孝謙天皇の勅願によって、唐僧・虚瀧和尚の開基と云う説と、1026年(万寿3年)加賀白山の修行僧・命禅上人の開基と云う説もあり、1156年(保元元年)京都仁和寺の寛遍僧正が東蜜(真言密教)の一派・忍辱山派を起こして寺勢を上げ、江戸時代は寺中23寺、寺領235石を有していたが、明治維新後に寺領を没収された。
国重文の「楼門」は、応仁の乱の兵火で焼失の後、1468年(応仁2年)再建され、入母屋造、檜皮葺。なお、旧「本堂」も兵火で焼失したが、現在の「本堂」は、室町時代の1466年(文正元年)栄弘阿闍梨によって、旧本堂と規模、様式ともそのままに春日造を思わせる藤原期の阿弥陀堂様式で再建され、入母屋造、銅板葺、前面の向拝両側に舞台を設けた珍しい造りになっている。
「写真;円成寺の庭園の池と楼門」
柳生へ行くなら「大和十三仏霊場」の1つである「円成寺」へ参りたい。
大柳生から少し奈良方面に戻ることにした。
8時45分頃に到着。
門前の名勝庭園は、平安時代末期の遺構を残した浄土式と舟遊式を兼備した寝殿造系だという。
その池に映る「楼門」を写真に収めようとするが、なかなか難しい。
池の横にある勧請縄も気になるし・・・
池に浮かぶハスの花の名残が、冬の到来を・・・
もちろん、残っている紅葉も撮りたいし・・・
カメラを持って池の周りをウロウロと・・・
拝観料を払って入山しようとしたら、受付前には待っている人が約3名?
四国遍路のお寺では、9時から拝観ということはなか ったのに・・・
拝観料を払おうとしたら、前にいた若い女性が順番を譲ってくれた。
何故?
受付で「大和十三仏霊場」の御朱印のことを聞くと、本堂で行っているとのこと。
本堂へ行き御本尊を拝んだ。
ご本尊は、藤原末期の国重文「木造阿弥陀如来座像」で、坐高145.4cm、九重の蓮華台座に座り、光背に宝相華唐草透彫りが施されていた。
先ほどの若い女性は、私の横で正座し真剣に御本尊を眺めている。
その後、彼女は、ご住職となにやら打ち合わせ。
電気の延長ケーブルと脚立が出て来て、本堂の柱に描かれている絵に対し調査?が始まるような様子?
私は本堂を出て境内の散策へ。
久々の「円成寺」はええとこやった。
@忍辱山円成寺
柳生街道随一の名刹。756年(天平勝宝8年)聖武上皇と娘・ 孝謙天皇の勅願によって、唐僧・虚瀧和尚の開基と云う説と、1026年(万寿3年)加賀白山の修行僧・命禅上人の開基と云う説もあり、1156年(保元元年)京都仁和寺の寛遍僧正が東蜜(真言密教)の一派・忍辱山派を起こして寺勢を上げ、江戸時代は寺中23寺、寺領235石を有していたが、明治維新後に寺領を没収された。
国重文の「楼門」は、応仁の乱の兵火で焼失の後、1468年(応仁2年)再建され、入母屋造、檜皮葺。なお、旧「本堂」も兵火で焼失したが、現在の「本堂」は、室町時代の1466年(文正元年)栄弘阿闍梨によって、旧本堂と規模、様式ともそのままに春日造を思わせる藤原期の阿弥陀堂様式で再建され、入母屋造、銅板葺、前面の向拝両側に舞台を設けた珍しい造りになっている。
「写真;円成寺の庭園の池と楼門」
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