大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

笠置山

2009年12月02日 | 京都府
この前から「笠置山(京都府相楽郡)」に登ってみたかった。
「笠置」周辺は何度もうろうろしているのに,肝心の「笠置山」には登っていない。
この山は日本の歴史に登場する山,是非登っ とかんとあかん!
初冬のもの凄く天気の良い日,紅葉も少しは残っているのを期待して,「柳生」を越えて行ってみることにした。
当初私の計画では,笠置山の麓の温泉に車を停め,そこから歩いて山頂へ。
下山後は掻いた汗を温泉で流してゆっくりと・・・
日頃の疲れも取れる予定やったのに・・・
でも,到着してみたら第1水曜日は休館日。
もうホンマにがっかり残念やった。
@「笠置寺縁起」によると、天武天皇がまだ大海人皇子の頃、ある日この辺りに狩猟に来て、獲物を追い山頂の岩の上に駈け登った時、突然大鹿が現れ、馬が驚きたじろぐと、眼下は千尋の谷で、進退きわまった皇子が、弥勒に祈念してあやうく危機を逃れました。そこで皇子は、後日の目印に岩上に笠を置いて帰り、後に訪れて笠を探していると、上空に一羽の白鷺が舞い、それに 導かれて、笠の置かれた岩に至り、そこでその岩を笠置(かさぎ)石、山を鹿鷺(かさぎ)山と称し、巨岩に弥勒像を彫って報謝の意を表し、伽藍を建立したのが、現在の「笠置山」と云われています。
笠置寺は天武天皇の開基で、後に東大寺の良弁や実忠が参籠して整備され、古来,大峯山の代行地で藤原道長も詣でて、1052年(永承7年)以後、末法思想で本尊「弥勒大磨崖仏」が天人彫刻仏として崇められ、1191年(建久2年)解脱上人(藤原貞慶)が日本の宗教改革を当寺から広め、弥勒信仰の全盛を極めた。
1331年(元弘元年)8月27日、政治改革に失敗した後醍醐天皇が2千5百の兵と供に立て籠もり、同年9月鎌倉方北条幕府7万5千が包囲するも、笠置山は全山が巨岩、怪石で覆われた天然の要塞で、攻撃を仕掛けた幕府軍が一の木戸「仁王門」前で天皇方を見上げると、上から三河国の足助次郎重範が十三束三伏(約160cm)の強弓で矢を放ち、荒尾九郎、弥五郎の兄弟を射殺して戦端が開かれました。
「写真;温泉から見た笠置山」



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