大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

ほうそう地蔵

2009年12月14日 | 奈良市
あの日、柳生の里を散策していると、「ほうそう地蔵」と書かれた道標を見つけた。
私は、昔この地域に「疱瘡(ほうそう)」が流行し、その病気で亡くなった人たちを弔うためにその地蔵が彫られたのだと勝手に推測した。
山沿いの旧「柳生街道」を暫く歩いたら地蔵があった。
その地蔵が「ほうそう地蔵」だと思って拝んで、それから解説板を探したが、特に見つからず?
「一刀石」を見逃した後なので、念のためにもう少しその道を先へと歩くことにした。
やがて屋根の架かった大きな石が見えてきた。
その石の地蔵の横にあった解説板から分かったことは、
「ほうそう地蔵」は、昭和44年にすぐ下の土の中から見つかった。
地蔵は、顔の部分が剥落して疱瘡にかかった様に見えていたが、今は修復されている。
また、向かって右下に長方形の枠取りがされ、中に元応元年(1319年)11月□日の銘があり、その下方に「正長元年ヨリ、サ キ者カンヘ四カンカウニ、ヲ井メアル、ヘカラス」と刻まれ、その文意は、正長元年(1428年)より以前に借金している者で神戸四ヵ郷(春日社領の大柳生、柳生、坂原、邑地)には負目(おいめ)あるべからずと云う事で、つまり、「借金の棒引き」をすると云う証文で、室町時代「徳政」を記念して彫られた貴重な文化的資料である。
ということやった。
「借金の棒引き」かぁ~
今も昔もいろいろあるねんなぁ~
今、国会で審議されているあの法案もなぁ~
私の住宅ローンは、まだまだ残っているしなぁ~
今年の冬のボーナス、大きく減るって聞いているしなぁ~
なにか現実味のある、えらい地蔵を見てしもたなぁ~という思いで、今来た道をトボトボ戻って行った。
「写真;ほうそう地蔵;国史跡 正長元年柳生徳政碑」

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