昨夏,益田岩船を見た帰りに訪れた「新沢千塚古墳群」。
ブログを読んでくださってる皆さんに,土饅頭が連続した「古墳群」を紹介したかったんやけど,夏のことで木立に葉が繁り,「古墳群」がよう見えへんだ。
先日,「新沢千塚古墳群」の横を通過。 車を運転していても,土饅頭のポコポコしたのがよく見えた。
やっぱり枯葉色した冬やなぁ~今回は,よく見える写真を撮って来ましたよ!
※新沢千塚古墳群
かつては「川西千塚」、「鳥屋千塚」と呼ばれていまし たが、今日では「新沢千塚古墳群」として広く知られています。古墳群が立地する場所は、市南部で高取町への境界となる貝吹山から四方に派生する尾根のうち、南西に伸びる低い丘陵上にあり、総数600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳でもあります。この丘陵は大きく北と南に分かれているためそれぞれを大きく北群、南群として捉えています。
群集墳を形成する端緒となった古墳はこの 地より南、貝吹山に近い一町の東常門の丘陵上に築かれた500号墳で、4世紀の終り頃と考えられています。500号墳周辺にも多くの古墳がありますが、群集墳の中心にはこの南北に分れた丘陵となります。古墳は4世紀の終わり頃から7世紀頃まで、実に200年以上営々造り続けられます。しかしながら、古墳造りが最も盛んであったのは5世紀半ばから6世紀前半頃で、それ以降は徐々に衰退していく傾向にあります。
古墳群は昭和37年から41年まで130基ほど発掘調査されています、そして、調査の結果、先にみた500号墳をはじめ、遠くのペルシャから舶載されたガラス器と金色に輝いた副葬品が出土した126号墳、古墳群の造営主体者は大伴氏、或いは、渡来系氏族・漢氏と推定されています。
今日、国の史跡に指定され、それに伴い保存整備が行なわれ、市民の散策コースとして親しまれています。
「写真;新沢千塚古墳群」
ブログを読んでくださってる皆さんに,土饅頭が連続した「古墳群」を紹介したかったんやけど,夏のことで木立に葉が繁り,「古墳群」がよう見えへんだ。
先日,「新沢千塚古墳群」の横を通過。 車を運転していても,土饅頭のポコポコしたのがよく見えた。
やっぱり枯葉色した冬やなぁ~今回は,よく見える写真を撮って来ましたよ!
※新沢千塚古墳群
かつては「川西千塚」、「鳥屋千塚」と呼ばれていまし たが、今日では「新沢千塚古墳群」として広く知られています。古墳群が立地する場所は、市南部で高取町への境界となる貝吹山から四方に派生する尾根のうち、南西に伸びる低い丘陵上にあり、総数600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳でもあります。この丘陵は大きく北と南に分かれているためそれぞれを大きく北群、南群として捉えています。
群集墳を形成する端緒となった古墳はこの 地より南、貝吹山に近い一町の東常門の丘陵上に築かれた500号墳で、4世紀の終り頃と考えられています。500号墳周辺にも多くの古墳がありますが、群集墳の中心にはこの南北に分れた丘陵となります。古墳は4世紀の終わり頃から7世紀頃まで、実に200年以上営々造り続けられます。しかしながら、古墳造りが最も盛んであったのは5世紀半ばから6世紀前半頃で、それ以降は徐々に衰退していく傾向にあります。
古墳群は昭和37年から41年まで130基ほど発掘調査されています、そして、調査の結果、先にみた500号墳をはじめ、遠くのペルシャから舶載されたガラス器と金色に輝いた副葬品が出土した126号墳、古墳群の造営主体者は大伴氏、或いは、渡来系氏族・漢氏と推定されています。
今日、国の史跡に指定され、それに伴い保存整備が行なわれ、市民の散策コースとして親しまれています。
「写真;新沢千塚古墳群」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます