大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

丹生都比売神社

2010年05月16日 | 和歌山県
何年か前から興味を持ちだし,訪ね旅した「丹生」という地名 。
この「丹生都比売神社」も訪ねてみたいと思っていた。
神社のHPには,このように書かれている。
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地「天野」に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この「天野」の地に鎮座されました。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、 丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十 八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余 を数え、当社は、その総本社であります。
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大 神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。】
私には,上記の文の意味が不思議でよく分からない???
まだまだ勉強の余地が残ってる!興味津々。
あの日,境内で出会った親切なボランティア・ガイドに出会い,説明を受けた。
この神社の太鼓橋を造った北条政子。
この太鼓橋を見て,大阪・住吉大社にさらに立派な太鼓橋(住吉反橋)を造ったのが淀殿・・・
「丹生」と水銀鉱脈のことも・・・
丹生都比売大神と弘法大師の出会い・・・
そして,あの事件のあった杉の木のことなど・・・
あの石造物も美しかったよなぁ~
境内の林木立の下に咲いてた二輪草。
この「天野」の里が好きになりそう。
西行が住んでいたというこの里を,もう一度ゆっくり訪ねてみたいと思い帰路についた。
「写真;丹生都比売神社」

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