『野ざらし紀行』は、江戸時代中期の松尾芭蕉の俳諧紀行文。
1684年(貞享元年)8月から、松尾芭蕉41歳が門人の苗村千里(なえむらちり)とともに出身地である伊賀上野へ母の墓参を目的に旅し、大和国にも立ち寄ったとされている。
その際、千里の里を訪れ、“竹内の興善庵”に10日間滞在したそうだ。
「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。」
綿弓や琵琶に慰む竹の奥
“綿弓”とは弓形の棒に牛や鯨の髭の弦を張ったもので、木綿の実を綿繰車にかけ核をとっただけの綿を、弦ではじき打って柔らかくする道具のこと。
“竹内街道”に沿って整備された囲炉裏のある休憩所の裏庭には、植物の“芭蕉”が植えられており、その奥に“綿弓塚”が建てられていた。
さらに千里の案内で“當麻寺”にも参詣して諸仏を拝み、詠んだ句が残っている。
「二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡千歳も経たるならむ、大いさ牛を隠す共云べけむ。かれ非情といへども、仏縁に引かれて、斧斤の罪を免がれたるぞ、幸にしてたつとし。」
僧朝顔幾死返る法の松
あの日、当麻寺の境内、金堂の手前に柵で囲まれた枯れた巨松の切り株があった。
傍らの石に“ごらいこうの松”と記してあった松が、この“法の松”やったんやろう。
この“御来光の松”は、数十年前までは勢い良く青々としていたとのこと。
なんというか、時の流れを感じてしもうたなぁ・・・
盛者必衰?
芭蕉が千年生き続けると喩えた松も枯れてしもうたんやなぁ~
人生って、はかないもんなんやろうなぁ~
「写真綿弓塚」
1684年(貞享元年)8月から、松尾芭蕉41歳が門人の苗村千里(なえむらちり)とともに出身地である伊賀上野へ母の墓参を目的に旅し、大和国にも立ち寄ったとされている。
その際、千里の里を訪れ、“竹内の興善庵”に10日間滞在したそうだ。
「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。」
綿弓や琵琶に慰む竹の奥
“綿弓”とは弓形の棒に牛や鯨の髭の弦を張ったもので、木綿の実を綿繰車にかけ核をとっただけの綿を、弦ではじき打って柔らかくする道具のこと。
“竹内街道”に沿って整備された囲炉裏のある休憩所の裏庭には、植物の“芭蕉”が植えられており、その奥に“綿弓塚”が建てられていた。
さらに千里の案内で“當麻寺”にも参詣して諸仏を拝み、詠んだ句が残っている。
「二上山当麻寺に詣でて、庭上の松を見るに、凡千歳も経たるならむ、大いさ牛を隠す共云べけむ。かれ非情といへども、仏縁に引かれて、斧斤の罪を免がれたるぞ、幸にしてたつとし。」
僧朝顔幾死返る法の松
あの日、当麻寺の境内、金堂の手前に柵で囲まれた枯れた巨松の切り株があった。
傍らの石に“ごらいこうの松”と記してあった松が、この“法の松”やったんやろう。
この“御来光の松”は、数十年前までは勢い良く青々としていたとのこと。
なんというか、時の流れを感じてしもうたなぁ・・・
盛者必衰?
芭蕉が千年生き続けると喩えた松も枯れてしもうたんやなぁ~
人生って、はかないもんなんやろうなぁ~
「写真綿弓塚」
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