
人間ドックの日、検査が終わって時計を見たら11時15分やった。
近くの昼食を楽しみにしている寿司屋の営業開始時刻は11時30分、まだ15分ある。
昨年、大阪・富田林を訪ねたとき、幕末に吉田松陰がこの町(富田林)に滞在していたことを知った。彼はこの町に来る前後、大和の地を訪ね“谷三山”という人物と会っていたという。
“谷三山”???

“大和三山”やったら知ってるけど・・・
“谷三山”って、たしか人間ドックの病院の近く、今井町の入り口近くの建物の前で解説板と石碑を見たような記憶が・・・

@谷三山
江戸時代の後期の儒者。享和2年(1802年)生まれ。慶応3年(1867年)没。
通称 新助、のちに昌平と改める。三山は号、別号は、淡庵、淡斎、釈斎。
八木村(現在の八木町)の米屋などを営んだ商家倉橋屋に生まれましたが、幼い頃目と耳を患い、聴力を失いました。ある時、兄の厚亭から小説の無稽を揶揄され、発奮して三山は、独学で正史経学に励み、兄とともに京都に遊学し、猪飼敬所(いかい けいしょ)に学びました。
その後、私塾「興譲館」を開き多くの師弟を指導していましたが、これが高取藩に認められ士籍を与えられ藩儒となり、教学を広め、尊王攘夷を説きました。
三山の卓越した学識を認めた頼山陽(らいさんよう)や吉田松陰など幕末の知識人とも親交があったということです。
富田林に縁がおありなんですね。
私は富田林と聞くと、PLの花火をイメージしてしまいます。
そうなんですか~
谷三山さんが授業で登場してはったんですか~
ホンマニ立派な方やったんですねぇ~
1000円分の食事券をもらって食べた1150円の寿司の写真はコレです↓
>http://blog.goo.ne.jp/e411y/e/1611e6867bf5eec9eb998d2e08f0d509
ドックのあとのご褒美がお寿司なんですね、美味しかったでしょう
谷三山の名前は見たことある!ってか聞いたことあるって言うか・・・そんな程度でした。
えらい学者さんだったのですね。
高校の古文の先生(担任)が時々授業を脱線して話してくれたのを思い出しました。