日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

イスラエルの旅 聖墳墓教会

2017-02-22 09:00:02 | 日記
「神よ、われらはあなたに感謝します。われらは感謝します。われらはあなたのみ名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」詩篇75:1



暖かすぎると思えば寒くなって震えあがりますから困った日々です。布団を付けておきたい位ですね。

今度はイスラエルでもっとも大きな教会である聖墳墓教会へ向かいます。といってもエルサレムを歩く、って感じでしょうか。この教会は7つの教会の管理の様です。カトリック、ギリシャ正教等です。







この教会の下がゴルゴザの丘です。それはまた後程。









細い道がはりめぐらされ、何処も都会は同じですね。でもここは受ける感じが違い興味深いです。







色んな教派があり、旅を繰り返す教派だそうです。でも聖書は一緒でありたいものです。









聖墳墓教会の正面玄関でしょうか。





街中にも出てしまいましたが、1度ゆっくり見たいものです。スナップとしてゆっくり考え撮ってみたいですが、この日はそんな余裕はないです。







ユダヤ教の女性も人によりベールをかぶる様です。

上の言葉
人に感謝したり、恵まれた境遇に感謝したりしますが、神様に感謝することがなによりも大切です。それは日ごとに神様の恵みと慈しみによって生かされているからです。感謝することがないと言いますが、平凡な一日を過ごせること自体、神様のみわざです。自分にとって良かった、悪かったではなく、今日一日が神様のみわざです。すべてのことを感謝して、みわざを語ろうではありませんか。(KE)

イスラエルの旅 ダビデの町

2017-02-21 09:09:37 | 日記
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」箴言29:25



今から3000年前によくこんな広大な町を造ったものです。その頃がイスラエルが最も栄えた頃と言われます。





大勢の人出で魂げますが、見るものが珍しい!



ガイドさんは地中の奥深くを案内されるじゃないですか。井戸というか昔の水源です。水源は低い場所にあり強固な要塞の様なもので囲み、外敵に犯されないようにしました。そこを敵にやられたら上に住む多くの人が死でしまいます。だから上から地下へ水を汲みに行く道というか、地下道を造ったのです。やはり上がったり下がったり、もぐらの様です。







細い人一人しか通れない道もありました。



その後、ダビデの町を歩きます。







ダビデの町は大きいうえ教会も多く、頭がこんがらがります。私だけかと思っていたら、皆さんそうだそうです。







良い天気で空が青く気持ちよいです。細い道もあり商店街があり、いろんな人種。面白い町でした。イスラム教のアザーンが聞こえ、TV等で聞いた事はあるけどエルサレムで!?びっくりです。





またユダヤ教のイベントがありました。

上の言葉
人はさまざまな恐れに囚われます。病気を恐れたり経済的な不足を恐れたり、それぞれの恐れには原因があります。なかでも人を恐れるとき力をなくします。その結果、人の言葉に引き回されてとんでもない失敗をしてしまうのです。しかし、神様を恐れ信頼するとき平安があります。たとえ独りきりになっても、なにものも恐れないで生きることが出来ます。自分の心を探って神様以外に恐れている事がないか点検してみましょう。(KE)

イスラエルの旅 ゲッセマネの園

2017-02-20 09:17:34 | 日記
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」ピリピ2:6-7



29日と30日はエルサレム観光です。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地ですから巡礼、観光で人であふれています。まずゲッセマネの園へ行きました。ここはユダヤ教、イスラム教の人は来ないでしょう?2000年前、イエスは弟子達に、私は十字架につけられます。そして3日目に蘇ります。と予言されていました。最後の晩餐という名画がミケランジェロ等多数の画家が描いていますが、このゲッセマネの園で政府の役人に捕らわれる前の夜食事をした時の様子です。
イエスは弟子たちに、この中で私を裏切る者がいます、と告げられました。ユダの事です。ユダは後に確かに金で政府役人にイエスを売りました。ペテロにイエスは、あなたは私を知らないと3度言います。その都度鶏が鳴きます。と言われました。実際その通りになりました。

このゲッセマネの園でイエスは油汗をかきながら父なる神に祈ってられました。しかし弟子達は眠っていたのです。心は燃えていても肉体は弱いとはこの事です。





側に教会がありました。万国教会だそうです。少しよそ見したらはぐれそう。私も写真を撮っていたら少しはぐれました。参った!いろんな人種、言葉は分からん。








こういう時は元に戻る事ですね。ガイドさんに会えて安堵。向こうにダビデの街が見えます。もの凄く広いし、
金のドームが見えます。城壁がはりめぐらされています。このドームは元はダビデの街に息子ソロモンが神殿として建てられましたが、3000年昔から今日まで幾度となく遣られました。今はイスラムになっています。





少し掘り返せば遺跡が出る、そんな街です。





城壁の中にものすごい多くの遺跡、聖書の名所があって、1度行っても解らなくなると多くの方が言われます。私も帰って、検索して少しわかった位いです。また多くの人が住んでいます。ホテルは端っこだったか?
宗教の多様、人種の多彩、遺跡の多さに大変魅力的な町です。クリスチャンでなくても魅了されるでしょう。



オリーブの木々はよく植わっていました

上の言葉
イエス様は神と等しい方、神様ご自身と言っても過言ではありません。本来、神の位にあるべき方が被造物である人間の姿になって人の世に住んでくださった。これ以上の「謙遜」が他にあるでしょうか。その上、罪人とされて十字架に掛けられ、墓に葬られて完全に「無」となられたのです。この生涯こそ私たちを永遠の命へ導く道です。(KE)


イスラエルの旅 カエサリア(円形劇場)

2017-02-19 08:44:59 | 日記
「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:1>



またカエサリアには円形劇場がありました。思えば14年前北イタリアのアオスタにローマの遺跡がありこんな円形劇場があったのを思い出しました。それよりかなり大きな規模で、地中海の側にあるのが趣があります。





ローマ文化が入ってたのですね。この日は風が強いでしたが、地中海に面した所に文化が開けたのでしょうか。





写真としても朝夕は良い被写体であるのが解ります。こんな時間では無理ですが、海とローマ文化。じっくりと写真目的なら取り組みたいです。そんな時間なんて皆無で、皆さんを追うのが精いっぱい。でも来れたのが幸いです。





天気が悪く寒い事!春はイスラエルも花が咲き美しいとか。







水道橋と同じく夕日がかかっていました。いよいよメーンのエルサレムへ向かいます。エルサレムは標高800m。高いのです。でも特異な町の様で楽しみです。どんどん、バスは登って行きます。





ホテルから見たエルサレムの夜景と朝景です。

上の言葉
十字架は極悪人を処刑する道具です。イエス様は罪人として、十字架に架けられました。何一つ抵抗せず、時の権力に負けたイエス様に多くの人々は失望し、離れて、滅びの道を行きました。十字架の出来事は大きなつまずきの石となったのです。しかし、主は死を打ち破ってよみがえり、信じる私たちに神の力を与えて、生きるものとして下さっています。この十字架こそ新しい命への入り口です。(KE)

イスラエルの旅 カエサリア

2017-02-17 23:52:56 | 日記
「人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。」箴言16:2



ナザレからカエサリアに向かいました。ここは地中海に面した港町です。ローマとよく似た円形劇場や水道橋がありました。古代から栄えた場所で、トルコやギリシャ、ローマに行きやすかったと思えます。ここは夕方、波は荒く、シャッターチャンスなので1眼レフで撮りました。我を忘れ皆さまを待たす事8分。悪かったです。写真旅行なら反対側から撮りたかったです。





使徒パウロは始めはイエスを十字架に着けた側の人でした。ある日、復活のイエスが「パウロ、パウロ、何故私を迫害するのか?」と真っ暗な道でイエスに呼ばれたのです。そして倒れました。3日間目が見えなかったのです。その後彼はすっかり悔い改め使徒になったのです。彼は宣教師の役目となり、ギリシャ、トルコ、ローマに4度も向かいました。船が難破したこともあります。牢にいれられた事もあります。死を覚悟した事はどれほど多かったか!この港から向かった事でしょう。







パウロは過去が律法学者でしたから頭脳明晰だったし信頼も多かったでしょう。でも身体に欠点がありました。
十字架と復活の希望のこの福音を多くの人につたえるためには死もいとわなかったのです。



天気は悪いし波は高いです。寒いです。地中海は温暖と聞いてましたが、こんな日もあるのですね。パウロも昔ですから船も小さなものだったでしょう。どんなに勇気が要った事か。








虹が出ていました。よく虹を見ることがありました。



上の言葉
身びいき、我田引水と言うのでしょうか、人は自分のことを正しい、間違いのないものと肯定しやすいのです。また、人は外見で判断します。しかし、神様はそのようなことで誤魔化される方ではありません。神様が目を留められるのは、その人の魂、心です。見えるものの背後にある、隠された動機、意図、思慮などを探り知られます。人の目を欺くことはできても、神様は隅々まで見ておられる事を知るべきです。(KE)