切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

前進座 五月国立劇場公演

2005-05-15 23:45:00 | かぶき讃(劇評)
前進座、初観劇の感想です。

①佐倉義民伝

じつはこの芝居、以前勘九郎(新勘三郎)が歌舞伎座でやって好評だったときは諸般の事情で見に行かず、先代勘三郎がやったときのビデオを見たことがあったのみ。というわけで、生の舞台は初めてだったのですが、なかなか舞台栄えするいい芝居ですね。

話は有名な史実。江戸時代、藩主の悪政に苦しむ農民を救うために将軍に直訴して磔の刑になった佐倉宗五郎の物語。恥ずかしながら、わたしはずっと新歌舞伎だと思い込んでいたのだけど、この芝居って江戸時代に書かれたものなんですよね。幕末になると、反幕府的な芝居も容認されたということか、あるいは佐倉宗五郎の霊を鎮めるという意味で幕府も手が出せなかったということか。

まず第一幕、門訴の場。江戸の藩主の屋敷の門前で年貢の軽減を佐倉宗五郎一行が願い出るのだが門前払いされてしまうくだり。嵐圭史の佐倉宗五郎は、若々しさのある壮年の佐倉宗五郎という印象。初代吉右衛門や先代勘三郎の宗五郎は貫禄のある年配の人物という造型だったらしいが、今回の嵐圭史はむしろ艶があって、貫禄があるというよりは壮年のしっかり者という風。門前払いを食らったところで鳴る太棹三味線が芝居の間にぴったり合って、「ああ、歌舞伎だなあ」という感じで、気持ちよかった。

そして第二幕。第一場は印旛沼の場。ここは雪道を笠をかぶった宗五郎が出てくるという、有名な花道の出。前の幕ではスッキリとした感じだった宗五郎が、ここでは人目を忍ぶお尋ね者として、落ちぶれた姿で登場するのだけど、そもそも年配という感じだった先代勘三郎より、若々しかった人が落ちぶれたという風に見える圭史の型は、落差という点で憐れみを誘う印象。そして、自分の身を省みず船を出す甚兵衛(藤川矢之輔)とのやり取りは泣かせどころ。この場は最後に甚兵衛に殺されるまぼろしの長吉という役がなかなかおいしい役なのだけど、武井茂の長吉は色悪の雰囲気があって、単なる憎まれ役でなかったところがよかった。雪の渡し場と船というのは、歌舞伎の舞台装置らしい面白さがあっていい。(今回はロープで引っ張って動かしているそうだけど。)

そして、第二場・子別れの場。有名な場面だし、この芝居に限らず、「子別れ」といえば、まさに泣かせどころなのだが、じつはこういうセンチメンタルでウェットな芝居って私は苦手なところ。今回好感を持ったのは、瀬川菊之丞の女房おさんが凛とした佇まいだったことと、子役の芝居。通常、歌舞伎座の子役なんかだと、ちょっと棒読み風の定まった台詞回しをするのだけど、前進座の子役は割りと普通に芝居させているのだなと思った。こういうことは稽古期間の長さと関係があるのかもしれない。

最後、舞台が回って、宗五郎の引っ込み。割としつこく子役がくっ付いていった後、振り切って雪積もる木岐の中に宗五郎が入ると、どさっと雪が落ちてくるという演出ははじめて見たのだけど、「完全に気持ちを振り切る」という心理効果を美術で表現するという趣向はなかなか良いもんだなあと正直思った。

ここで、今回のこの芝居は終わり。通常は将軍への直訴の場があって、華やかな渡り廊下の舞台装置が、それまでの雪景色のくすんだ美術と対照的でよいのだけど、今回はなし。まあ、お金もかかるのだろうけど、ちょっと見てみたかったかな。

②権三と助十

以前から、「岡本綺堂の芝居はつまらない」と広言してはばからない私だが、正直言って、初めて岡本綺堂の芝居で面白いと思えた。

話は、長屋で隣同士の駕篭かき、権三と助十が同じ長屋の住民の冤罪を晴らそうと活躍するという、ちょっと推理仕立ての芝居。ただ、ミステリーの要素よりも、落語の長屋物のような滑稽味が面白く、半七捕物帳なんかを思わせる洒脱さがある。「修善寺物語」や「番町皿屋敷」では、ウザったい心理主義で見ているこっちが息が詰まりそうになるのだけど、こういう芝居も書けるんじゃないって思えるほど楽しめた。

まず、良かったのは梅雀の権三。テレビでのイメージが強かったのでわからなかったのだけど、この人、舞台ではとても色気がある。役の設定も、「色町の女を女房にした男」なのだけど、充分説得力があって、これはテレビでの印象からは想像しなかったな。

さらに良かったのが助十の藤川矢之輔。まさに落語なんかの長屋の世界から出てきたようなきっぷの良さ。特に、真犯人の勘太郎がお礼参りとばかりに、酒を持って嫌みったらしく長屋を訪ねてくる場面。はじめは下手に出ていた長屋の連中が次第に勢いづいて、反対に勘太郎に毒づくあたりの面白さ、江戸弁の台詞の楽しさは、ほんとに良かった。

大家の梅之助、女房おかんの国太郎ももちろんよかったのだけど、主要な登場人物のアンサンブルがよく、昔なら梅幸、松緑存命時の菊五郎劇団の「切られお富」や「魚屋宗五郎」あたりを髣髴とさせる感じ。特にこの芝居の設定の面白さのひとつ、<井戸替え>で出てくる長屋の人々の仕出し(エキストラ)がバラエティーに富んでいて、次はどんな感じで長屋の人たちが出てくるのか楽しみになったほど。後で聞いた話だと、役者一人一人に梅之助本人が細かい指示を出しているのだとか。梅之助本人が出ているだけに、役者も気が抜けないとのこと。

               ★  ★  ★

二つの演目を通して思ったのは、「ここに歌舞伎があるじゃないか」ということ。こんな言い方をしては前進座の方々に失礼だったかもしれないが、歌舞伎座では「野田版研辰」だの「蜷川歌舞伎」がもてはやされているわけで、そもそも守旧派の私としては、昔からの歌舞伎そのもののほうがよっぽど斬新だという思いがある。

パンフレットのなかで、演劇評論家の清水一朗氏が「昔は、菊五郎劇団、吉右衛門劇団、関西歌舞伎と三つ見られたが、今ではよくて二つぐらいだ」という趣旨の発言があって大いに肯いてしまった。昨今の奇を衒った歌舞伎は、私にはひとつの現代演劇にしか見えないし、古典の持つ豊かさを回復するには、結局のところ、芝居をそれぞれのスタイルにしたがって練り上げるしかないのではという気がしてくる。歌舞伎座の現在のスタイルが見取り制という仕組みをとっている以上、どうしても音楽でいうところのセッション的なものになってしまうところの問題について改めて考えさせられてしまった。

前進座の歌舞伎の印象で言えば、案外、九代目團十郎、六代目菊五郎以来のリアリズム的なスタイルを基調としているという印象を持ったのだけど、まだ初めての観劇だし、一応判断保留。10月に「髪結新三」があるそうなので今から楽しみになってきた。

なんだか褒め過ぎたようだけど、今後も歌舞伎をいろいろやってもらいたいなあというのが私の感想でした。

【参考】
「井戸替え」とは?
歌舞伎の上演形態(見取り制とは?)


PS:因みに以下は私の岡本綺堂批判4連発です。綺堂ファンの方は胸が悪くなるので、読まないことをお勧めします。

修禅寺物語 歌舞伎座 七月 その1
十一月大歌舞伎 昼の部 (歌舞伎座)前編
二月大歌舞伎 昼の部 (歌舞伎座)
寿新春大歌舞伎 (新橋演舞場) 夜の部

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