切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

新作歌舞伎「石川五右衛門」(新橋演舞場)

2009-08-30 23:59:59 | かぶき讃(劇評)
観てきました。簡単に感想っ。(簡単でもないか…。)

この芝居は、市川海老蔵がマンガ原作者・樹林伸(「金田一少年の事件簿」「神の雫(しずく)」の原作者)を作者に起用して作った新作歌舞伎です。

マンガとのタイアップも行われていて、雑誌「モーニング」に「風と雷」のタイトルで連載されているとか。といっても、わたしはマンガの連載って読まないタチなんでねぇ~。

というわけで、本題の芝居の話。

序幕、釜茹で寸前の五右衛門が登場するのですが、ここがなんと人形振り!縛られた五右衛門と役人が人形振りの掛け合いになりますが、妙に地味なんですよね。

というのも、後景に風景の書かれた幕を使っているからで、どうせなら暗幕を使った象徴的な画にすべきだったと思いました。それに、海老蔵の五右衛門は縛られているせいもあって、あまり動かない!これじゃあ、ちょっと絵になりませんよ。人形振りって、動いてこそ面白いんですからね~。

(注:「人形振り」というのは、役者を文楽の人形に見立てて、人形遣いに操られている風で演じる演出。役者が普通に演じる場合と違って、没心理的印象を与え、象徴性が高まる。個人的には玉三郎の「日高川」とか「阿古屋」の岩永なんかよいですね~。)

ただ、新作歌舞伎の冒頭を人形振りにするという演出は、海老蔵の新作が現代演劇風の演出より、歌舞伎らしい演出を志向しているということなんだとは思いました。そういう意味では、猿之助的なアプローチともいえるかな?

で、序幕から今度は回想に入って、五右衛門が忍者の里で修行するくだりへ。

ここがわたしには単調に思えましたね。海老蔵の「立ち回り大会」って感じでねぇ~。冒頭で、舞台奥にうずくまっている海老蔵=五右衛門というのも視覚効果に乏しかったし、いくら修行とはいえ、四季に併せて立ち回りというのは…。

しかも、いまいち視覚的な立ち回りになっていないことが問題で、菊五郎劇団の正月興行の立ち回りの美的なセンスからすると随分見劣りがする。

子供を使った場面もありましたが、舞踊の要素を入れるとか、変化があった方がよかったんじゃないですか。たぶん、「カムイ伝」とか「あずみ」のイメージなんでしょうけれど…。

で、この後、聚楽第に忍び込んだ五右衛門の前に茶々(後の淀君)登場。

七之助の茶々はなかなか綺麗でしたね。先月の「桜姫」もそうだったけど、随分このひとの女形は綺麗になりました。化粧が変わったのかな~。兄の勘太郎と違って、このひとは母方の成駒屋の系統の顔をしてますよね、鼻筋なんか特に。

と、ココからが今回の原作の面白いところですが、茶々と五右衛門が恋仲になるんですよね。歴史異本みたいなパターンというか。

まあ、とかく新作歌舞伎って実証主義型(明治の活歴物とか)に陥るんだけど、マンガ原作者起用のよさはこういうところにあるんじゃないですかね~。

ただ、この恋愛がドラマにまで消化できてない恨みがある。桜姫と釣鐘権助みたいな深い因果みたいなものを持ち込んだ方がわたしは歌舞伎っぽいんじゃないかな~とは思いました!たとえば、桜姫が白菊丸の生まれ変わりだったみたいなパターンとかね。

で、茶々が懐妊。茶々の元に銀煙管があったことから、秀吉は茶々の子の父親を知る…。

豊臣秀吉役は團十郎。

とにかく、花道の登場から浮世離れした怪演。通常の貧相な秀吉イメージからは遠く離れた浮世離れのした怪物ぶりで、新派で「鹿鳴館」の影山伯爵を演じたときみたいな雰囲気がありました。でも、こういうアンチ・リアリズム的な團十郎スタイルは好みが分かれるんじゃないですか?わたしは好きなんですけどね~。

とはいえ、舞台が急に締まったことは誰もが否定できないんじゃないのかな?

で、海老蔵=五右衛門VS團十郎=秀吉の対決!

この場面に限らず、今回の芝居で問題なのは、歌舞伎座より狭いはずの新橋演舞場が広く感じてしまうこと。

つまり、五右衛門と秀吉の対決場面で、舞台を広く使ってないことが問題だと思ったなあ~。

台詞はご両人とも例によって朗々として立派なんだけど、なんだか対決してる面積が狭いので、演出に問題あるなあ~とは思いました。

それと、「じつは五右衛門が秀吉の子供だった」と判る場面!(これも凄い設定だなあ~。)ココに至るまでの掛け合いがもうひとひねり欲しかったかな~。あまりよい比較じゃないけれど、黙阿弥の「加賀鳶」で道元が痛いところを突かれる時の意外性みたいな感じというか…。(このあたりは、渡辺保さんの感想とおんなじです。)

このあと、大阪城の鯱(しゃちほこ)を盗むくだりへ続くのですが、その前に川で鯱を掴むくだりは、案外平板。

歌舞伎を見慣れている観客なら、歌舞伎ならではの魚と人間の絡んだ舞台だと思うのでしょうが、歌舞伎慣れにしてない人からしたら、たんに「海老蔵がんばってるな~。」くらいにしか思わないのでは?少し鯱つかみのくだりを短くするか、美術的な変化をつけて、舞台の平板さをカバーするなど、工夫のしようがありましたね~。

それと、天守閣の屋根での立ち回りでは、海老蔵そっくりの特殊メイク(?)をした五右衛門軍団(?)が登場。ここは火を使った仕掛けも面白かったんですが、早替りの伏線かと思ったらそうでもなかったんですよね…。

で、最後は冒頭の釜茹でシーンに戻って、宙乗りによる脱出。そして、それは父親である秀吉の策略だった…。

ここでは冒頭と違って暗幕に釜という舞台(最後に暗幕を使うために、冒頭は背景入りの幕を使っていたってこと?)。

そして、葛篭を使った宙乗りで釜茹でを脱出した五右衛門が、宙を漂いお芝居は幕。

わたしの最終的な感想を言っておくと、意欲は認めるけど、もうひとつ話の芯がはっきりしなかったってところですかね~。

要するに、海老蔵演じる五右衛門に観客がもうひとつ感情移入できないし、感情移入できない代わりにひたすらカッコイイということにもならなかった。

たぶん、この原作の五右衛門像は、「奇岩城」のアルセーヌ・ルパンとか「カリオストロの城」のルパン三世に通じるものがあるのだろうけど、五右衛門のキャラを強調するような場面が少ないために、五右衛門という人間がわからない。

簡単にいうと、真面目なんだか真面目じゃないんだか、さっぱり判らないんですよ。

だから、秀吉と対決するまでに、しっかりと五右衛門のキャラのわかる場面が必要でしたね。これだったら、千本桜のいがみの権太の方がよっぽどキャラがよくわかる。(たぶん、歌舞伎の新作の問題点は、よい世話場を書ける作者がいないということなのかも?)

茶々を口説く場面とか、忍術修行のくだりで、五右衛門=海老蔵の息遣いの聞こえる脚本が必要だったので?というあたりがわたしには気になりました!

以上、延々と批判がましいことを書きましたが、こういう試みは必要だし、現代演劇のよい部分をそのまま歌舞伎に持ち込んでいる勘三郎のアプローチより、純粋に歌舞伎的なアプローチだとは思います。

今後も続けて欲しいですね、試みとしては!

PS:後で思ったんだけど、民衆が秀吉と五右衛門の噂話をするくだりがあって、政治と大衆心理の操作みたいなテーマがこのドラマにはあったのかな~とも思いました。小説でいうと大江健三郎の『万延元年のフットボール』とか中上健次の『枯木灘』みたいな感じ…。じつは中上健次をやりたかったのかな?樹林伸さんは!!

「でっけえ歌舞伎」入門 マンガの目で見た市川海老蔵 (講談社プラスアルファ新書)
樹林 伸
講談社

このアイテムの詳細を見る


万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)
大江 健三郎
講談社

このアイテムの詳細を見る


枯木灘 (河出文庫 102A)
中上 健次
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 納涼歌舞伎 第二部「豊志賀... | トップ | 選挙の感想。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

かぶき讃(劇評)」カテゴリの最新記事