今年最後の歌舞伎座。さてどうだったのでしょう?
①鈴が森
話は単純で、庶民のヒーロー二人の一瞬の出会いと別れというフィクション。美少年・犯罪者の白井権八と大親分・幡随院長兵衛。彼らはお互いを認め合い、悲劇的なそれぞれの運命を暗示させながら去っていく。舞台が江戸時代の徒刑場「鈴が森」であることや、鈴が森にたむろする有象無象(雲助)とのちょっとグロテスクな切った張ったも特徴のこの芝居、作者は四谷怪談でおなじみ、終生「死」や「肉体の破壊」をテーマにしてきた四世鶴屋南北。
そもそもこの芝居に私は大きな疑問を抱いている。
三島由紀夫がかつて『裸体と衣裳』(新潮文庫)の中の9月23日のくだりで、「岡本綺堂の新歌舞伎の登場人物より『鈴が森』の権八のほうが、ずっと現代に近く息づいている。」と言っていることもあって、私もこの芝居の実演に接するたびに、注意して見ているのだが、一度も面白いと思ったことがない。岡本綺堂の芝居は問題外にしても、問題の一節の前で、「暫」という芝居に「シュールリアリステックな美」を感じると三島がいっていることから、「鈴が森」にもシュールリアリステックな美があるということなのだろうが、そんな感じは舞台中央の大きな墓石の美術ぐらいにしか感じられず、長らく疑問に思ってきた。
いったい何がいけないのか?何かが違っているのか?この辺りの疑問を解く鍵に、どうも最近のこの芝居のキャスティングが関係あるのではという気がしてきた。近年この芝居の白井権八を演じているのは、七之助(今回で二度目)、孝太郎、染五郎。要するに、若手役者の顔見世芝居的な位置づけを松竹側がしているらしいというところにどうも問題があるのではないか。
かつては勘三郎や梅幸が権八を演じて名演だったらしいし、六代目菊五郎が演じた権八を幕見から太宰治が見ていたなんて話もあるから、どうも演じるべき人がやると何かがあるということなのだろう。(多分一種の"色気”なんじゃないかとは思うが…。初演は女形役者が演じて大当たりを取っていることだし。)
また、九代目團十郎の台詞が絶品で二代目左團次が芸を盗む為に通ったという播随院長兵衛役も、前述の権八役にたいして、近年は橋之助、幸四郎、弥十郎といったあたり。これでは、面白みも半減といわざるを得ないような…。
やはり、ぼちぼちこの辺で、権八=菊五郎か勘九郎あるいはいっそ玉三郎、長兵衛=吉右衛門といったところで、これぞ本当の『御存知鈴が森』という舞台をやるか、さもなければミュージカルやバレエにも通じる要素があり、いじりがいのありそうなこういう芝居こそ、新しい演出家を連れてきてやってみる(そのときは海老蔵なんかがいいと思う。)などしないと、若い役者の締まらない芝居とともに本来眠っている価値が埋もれて行ってしまいかねないような気がする。
因みに、以前CSの「勘九郎キックオフ」という番組中の勘九郎の発言で、「海老蔵あたりが新しい演出家と新しい歌舞伎を作らなくてはいけない。例えば、宮藤官九郎と平成版『暫』をやるとか…。」というようなことを言っていたが、<宮藤官九郎の平成版『暫』>には断固反対の私も、「鈴が森」ならまあいいかという気も…。でも願わくば、違う演出家でお願いしたいが。
というわけで、前説が長くなったが、今回の「鈴が森」について。七之助の権八を観るのは二度目。以前、浅草歌舞伎で歌舞伎ビギナーを連れての観劇をしたところ、「ん~。なんだか頼りない子だね。」という反応が返ってきたぐらいで(やっぱり芸は素人の目も誤魔化せないなあ。)、今回はどうなることかと思ったが、だいぶ改善されていて立派にはなった。(特に台詞。)でも、この人のアンバランスなまでの線の細さというのは、ちょっとカルト的な嗜好すら呼び覚ます変わったものかもしれないという気が、今回初めてしてきた。最近のマンガに出てくる油気のない美少年キャラに通じるようなところもあるし、声もなんだかとても高い。いわゆる女形の立ち役とも違った奇妙さがあるような気がして、妙な人気が出ると面白いかも。でも、次男でよかったな…。
そろそろ、七之助ファンから非難のコメントが来そうなので次の芝居へ…。
PS:長くなったので、後編に続きます。問題はこの後のほうだったんですよね、夜の部は。
「平成の新作歌舞伎とは」というテーマを考えさせてくれる、このあとの三本の芝居。私もいろいろ考えました。お楽しみに!
(続き)
②阿国歌舞伎夢華
③たぬき
④今昔桃太郎
①鈴が森
話は単純で、庶民のヒーロー二人の一瞬の出会いと別れというフィクション。美少年・犯罪者の白井権八と大親分・幡随院長兵衛。彼らはお互いを認め合い、悲劇的なそれぞれの運命を暗示させながら去っていく。舞台が江戸時代の徒刑場「鈴が森」であることや、鈴が森にたむろする有象無象(雲助)とのちょっとグロテスクな切った張ったも特徴のこの芝居、作者は四谷怪談でおなじみ、終生「死」や「肉体の破壊」をテーマにしてきた四世鶴屋南北。
そもそもこの芝居に私は大きな疑問を抱いている。
三島由紀夫がかつて『裸体と衣裳』(新潮文庫)の中の9月23日のくだりで、「岡本綺堂の新歌舞伎の登場人物より『鈴が森』の権八のほうが、ずっと現代に近く息づいている。」と言っていることもあって、私もこの芝居の実演に接するたびに、注意して見ているのだが、一度も面白いと思ったことがない。岡本綺堂の芝居は問題外にしても、問題の一節の前で、「暫」という芝居に「シュールリアリステックな美」を感じると三島がいっていることから、「鈴が森」にもシュールリアリステックな美があるということなのだろうが、そんな感じは舞台中央の大きな墓石の美術ぐらいにしか感じられず、長らく疑問に思ってきた。
いったい何がいけないのか?何かが違っているのか?この辺りの疑問を解く鍵に、どうも最近のこの芝居のキャスティングが関係あるのではという気がしてきた。近年この芝居の白井権八を演じているのは、七之助(今回で二度目)、孝太郎、染五郎。要するに、若手役者の顔見世芝居的な位置づけを松竹側がしているらしいというところにどうも問題があるのではないか。
かつては勘三郎や梅幸が権八を演じて名演だったらしいし、六代目菊五郎が演じた権八を幕見から太宰治が見ていたなんて話もあるから、どうも演じるべき人がやると何かがあるということなのだろう。(多分一種の"色気”なんじゃないかとは思うが…。初演は女形役者が演じて大当たりを取っていることだし。)
また、九代目團十郎の台詞が絶品で二代目左團次が芸を盗む為に通ったという播随院長兵衛役も、前述の権八役にたいして、近年は橋之助、幸四郎、弥十郎といったあたり。これでは、面白みも半減といわざるを得ないような…。
やはり、ぼちぼちこの辺で、権八=菊五郎か勘九郎あるいはいっそ玉三郎、長兵衛=吉右衛門といったところで、これぞ本当の『御存知鈴が森』という舞台をやるか、さもなければミュージカルやバレエにも通じる要素があり、いじりがいのありそうなこういう芝居こそ、新しい演出家を連れてきてやってみる(そのときは海老蔵なんかがいいと思う。)などしないと、若い役者の締まらない芝居とともに本来眠っている価値が埋もれて行ってしまいかねないような気がする。
因みに、以前CSの「勘九郎キックオフ」という番組中の勘九郎の発言で、「海老蔵あたりが新しい演出家と新しい歌舞伎を作らなくてはいけない。例えば、宮藤官九郎と平成版『暫』をやるとか…。」というようなことを言っていたが、<宮藤官九郎の平成版『暫』>には断固反対の私も、「鈴が森」ならまあいいかという気も…。でも願わくば、違う演出家でお願いしたいが。
というわけで、前説が長くなったが、今回の「鈴が森」について。七之助の権八を観るのは二度目。以前、浅草歌舞伎で歌舞伎ビギナーを連れての観劇をしたところ、「ん~。なんだか頼りない子だね。」という反応が返ってきたぐらいで(やっぱり芸は素人の目も誤魔化せないなあ。)、今回はどうなることかと思ったが、だいぶ改善されていて立派にはなった。(特に台詞。)でも、この人のアンバランスなまでの線の細さというのは、ちょっとカルト的な嗜好すら呼び覚ます変わったものかもしれないという気が、今回初めてしてきた。最近のマンガに出てくる油気のない美少年キャラに通じるようなところもあるし、声もなんだかとても高い。いわゆる女形の立ち役とも違った奇妙さがあるような気がして、妙な人気が出ると面白いかも。でも、次男でよかったな…。
そろそろ、七之助ファンから非難のコメントが来そうなので次の芝居へ…。
PS:長くなったので、後編に続きます。問題はこの後のほうだったんですよね、夜の部は。
「平成の新作歌舞伎とは」というテーマを考えさせてくれる、このあとの三本の芝居。私もいろいろ考えました。お楽しみに!
(続き)
②阿国歌舞伎夢華
③たぬき
④今昔桃太郎
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