パリという所が、(諸説あるとはいえ)映画史的には1895年のリュミエール兄弟による『列車の到着』の上映以来「映画発祥の地」で、フランスが国策として映画を保護しているという事はご存知の方も多いでしょう。フランスに倣うような形で国策的に映像産業を保護育成したのが近年の韓国で、日本も遅ればせながら管轄官庁である文化庁が動き出しました。
まあ、堅い話はこの辺にして、世界中の映画を上映しているパリで映画を観ようと思った場合、まず手に入れなければいけないのは、パリ版「ぴあ」または「東京ウォーカー」ともいえる「PARISCOPE」か「L’OFFICIEL」という雑誌。これらの情報誌の複雑な記号を解読するには「パリノルール」というガイドブックが役に立ちますが、「「PARISCOPE」が0.4E、「L’OFFICIEL」が0.35Eと二冊買っても1ユーロ(約140円)以下、実に安いもんです。(因みに私の買った週の、「L’OFFICIEL」の表紙は「THE GRUDGE」。これって東宝スタジオで撮影していたんですよね。)
というわけで、これらの情報誌をパラパラとめくっているうちに、新作映画紹介のページに「TATOUAGE…MASUMURA…」の文字が!もしやと思いよく読めば、増村保造監督『刺青』のことじゃないですか!しかしこの映画1960年代半ばの作品なんだけど新作扱いとは?これも新生角川映画商法か?なんと新作映画としてパリ市内で二館も上映しているとのこと。折角だからということで、「新年から、真っ先にこの映画を私の肥しにしてやろう!」と勇んで、ポンピドーセンター近くの映画館に出かけていきました。
パリの映画館では先にチケットを買ってから、外で列を成して待つというスタイルが一般的なようですが、驚いたのは結構な人数が並んで待っていたこと。もちろん大行列というほどではないにせよ、日本の名画座のことを思えば、まずまずの入り。上映したスクリーンは東京で言うとユーロスペースぐらいでしたが、老若様々で(どっちかっていうと年配のほうが多いかな?)座席もまずまず埋まってしまった。
この『刺青』という映画は、若尾文子主演の大映映画。監督の増村保造は自身もイタリアに留学経験もあるし、ヨーロッパでは今尚神格化されている映画監督溝口健二の弟子筋。スタッフはカメラが黒澤明の『羅生門』や溝口健二の戦後の一連の作品を撮った宮川一夫。(小津安二郎の大映作品『浮草』もこの人。)美術は今も元気な西岡善信、という大映京都スタッフ。(ただし、はっきり言って美術はいまいちでしたね。戸外のシーンのホリゾントがバレバレで。)
因みに私はこの映画、少なくとも二回は映画館で観ているし、録画したビデオも家にあるのだが、正直なところ、増村作品としては駄作だと思ってきた。というのも、撮影秘話として、普段はカメラのファインダーを覗いてアングルを決定していた増村が、この映画では大御所カメラマン宮川にまったくファインダーを覗かせてもらえず、カメラの後ろをイライラとうろつきまわっていたという伝説が頭にあったからで、増村的画面構成ではない増村作品というイメージで私も捉えていた。
しかし、フランス語字幕つきの上映が始まってみると、これが実に小気味良い。シネスコサイズで人物をミデアムショットで捉える増村流アングルがちゃんと貫かれている。こういう特殊な撮り方のために、六尺ある襖の下から三尺分までしか写らないという不思議な日本間の空間感覚になっていて、小津安二郎の映画の日本間とは明らかに異質。この週にはパリのあちこちで小津の回顧上映が行われているだけに、パリの人たちの目にはこの画面はどう写ったんだろうか?
話は、谷崎潤一郎の「刺青」と「お艶殺し」をミックスした話で、手代と駆け落ちした大店の娘・お艶が騙されて、背中に女郎蜘蛛の刺青をされ、以来悪女に変貌していくというもの。娘にしてはこの頃既にトウがたっている若尾文子だが、全盛期の元気さと色っぽさで話をドンドン引っ張っていく。つまんない「反省」癖とは無縁の女お艶に増村は何を託したのだろう?いずれにしても、反省しない女、お艶=若尾文子の過剰さを楽しく鑑賞し、元気を貰って映画は終わった。(因みに、私の愛する椎名林檎嬢が好きな女優として、増村作品の若尾文子を挙げています。)
さて、映画を離れて谷崎の「刺青」という作品について最近思うことがある。正直なところ、子供の頃日本文学の名作として読んだこの小説は、子供の私にはまったく解せないものだった。騙されて、刺青されて、「あなたは真っ先に私の肥やしになった」なんて感謝する女がいるんだろうかと。おそらくフェミニストあたりからも攻撃対象になりやすい、男の妄想による「女」なんじゃないかと。
しかし、今は考えが違ってきた。これは「女は変身しなければいけない。」という近代的(?)なテーマ・呪縛を先取りしていたんじゃないかと。自分を変えるための、ブランド品購入(田中康夫的だな…。)だの外国人と付き合ってみるだの整形だのピアスだの語学だの自分探しの旅だのと、様々な「変身」商売のトラップに囲まれて私たちは生きている。今年も成人式は大荒れなんだろうけど、社会的な儀式としての「成人」というものが消失した現代では、「成人=変身」の儀式すら自分で選び取らなければいけないんじゃないかと思う一方、「変身」なんてしなくていいんじゃないかとも思う。
結局、「変身」するより「騙されない智恵」の方が今の私にとっては必須のアイテムであって(例えばボッタくられない為の、いわゆる「語学」でなく具体的な単語やフレーズの暗記など)、ズルく生きる智恵と度胸を持った人だけが私を励ましてくれる。それこそ若尾文子の悪女役じゃないけれど。それにしても、清らかな役ほど精気が感じられず頭が悪そうに見え、毒々しい役ほどに生命力と智恵が備わっているように感じられるのはなぜだろう?(ねえ、吉永小百合さん!)ここに安易で浅薄なリアリズム表現では辿り着けない表現の謎があるのだとおもうのだけど…。
帰り際、受付でこの映画のチラシ(画像がそれです。)を見て気づいたことがある。この「刺青」という小説、1910年の発表(出版?)なんですね。日本史で言えば大逆事件の頃だし、ちょうど今から95年前。今から百年近く昔に登場した<刺青>という自己変革の記号の呪縛から日本の小説っていつになったら解き放たれることなのか?まあ、いとも簡単に騙されてる読者の問題でもあるにせよ…。
そんなわけで、図らずも年末に作った年賀状で使わせてもらった、我が愛すべき「若尾文子」に遠いパリの地で出会ったという私の顛末でした。
注①:1尺は約30cm。和物の寸法は尺貫法でないと締まらないので敢えてこう表記してみました。あしからず。
注②:増村作品では『赤い天使』という作品がかつてパリで高い評価を受けたことがあります。ただ、私はこの映画の芦田伸介が苦手でどうもダメなのだけど。因みに私の好きな増村作品は、『偽大学生』、『黒の試走車』、『耳を噛みたがる女』(オムニバス映画『女経』の中の一篇)といったあたりかな、他にもいろいろあるけれど。
・あけおめ(新年のご挨拶)
・1910年ごろ
まあ、堅い話はこの辺にして、世界中の映画を上映しているパリで映画を観ようと思った場合、まず手に入れなければいけないのは、パリ版「ぴあ」または「東京ウォーカー」ともいえる「PARISCOPE」か「L’OFFICIEL」という雑誌。これらの情報誌の複雑な記号を解読するには「パリノルール」というガイドブックが役に立ちますが、「「PARISCOPE」が0.4E、「L’OFFICIEL」が0.35Eと二冊買っても1ユーロ(約140円)以下、実に安いもんです。(因みに私の買った週の、「L’OFFICIEL」の表紙は「THE GRUDGE」。これって東宝スタジオで撮影していたんですよね。)
というわけで、これらの情報誌をパラパラとめくっているうちに、新作映画紹介のページに「TATOUAGE…MASUMURA…」の文字が!もしやと思いよく読めば、増村保造監督『刺青』のことじゃないですか!しかしこの映画1960年代半ばの作品なんだけど新作扱いとは?これも新生角川映画商法か?なんと新作映画としてパリ市内で二館も上映しているとのこと。折角だからということで、「新年から、真っ先にこの映画を私の肥しにしてやろう!」と勇んで、ポンピドーセンター近くの映画館に出かけていきました。
パリの映画館では先にチケットを買ってから、外で列を成して待つというスタイルが一般的なようですが、驚いたのは結構な人数が並んで待っていたこと。もちろん大行列というほどではないにせよ、日本の名画座のことを思えば、まずまずの入り。上映したスクリーンは東京で言うとユーロスペースぐらいでしたが、老若様々で(どっちかっていうと年配のほうが多いかな?)座席もまずまず埋まってしまった。
この『刺青』という映画は、若尾文子主演の大映映画。監督の増村保造は自身もイタリアに留学経験もあるし、ヨーロッパでは今尚神格化されている映画監督溝口健二の弟子筋。スタッフはカメラが黒澤明の『羅生門』や溝口健二の戦後の一連の作品を撮った宮川一夫。(小津安二郎の大映作品『浮草』もこの人。)美術は今も元気な西岡善信、という大映京都スタッフ。(ただし、はっきり言って美術はいまいちでしたね。戸外のシーンのホリゾントがバレバレで。)
因みに私はこの映画、少なくとも二回は映画館で観ているし、録画したビデオも家にあるのだが、正直なところ、増村作品としては駄作だと思ってきた。というのも、撮影秘話として、普段はカメラのファインダーを覗いてアングルを決定していた増村が、この映画では大御所カメラマン宮川にまったくファインダーを覗かせてもらえず、カメラの後ろをイライラとうろつきまわっていたという伝説が頭にあったからで、増村的画面構成ではない増村作品というイメージで私も捉えていた。
しかし、フランス語字幕つきの上映が始まってみると、これが実に小気味良い。シネスコサイズで人物をミデアムショットで捉える増村流アングルがちゃんと貫かれている。こういう特殊な撮り方のために、六尺ある襖の下から三尺分までしか写らないという不思議な日本間の空間感覚になっていて、小津安二郎の映画の日本間とは明らかに異質。この週にはパリのあちこちで小津の回顧上映が行われているだけに、パリの人たちの目にはこの画面はどう写ったんだろうか?
話は、谷崎潤一郎の「刺青」と「お艶殺し」をミックスした話で、手代と駆け落ちした大店の娘・お艶が騙されて、背中に女郎蜘蛛の刺青をされ、以来悪女に変貌していくというもの。娘にしてはこの頃既にトウがたっている若尾文子だが、全盛期の元気さと色っぽさで話をドンドン引っ張っていく。つまんない「反省」癖とは無縁の女お艶に増村は何を託したのだろう?いずれにしても、反省しない女、お艶=若尾文子の過剰さを楽しく鑑賞し、元気を貰って映画は終わった。(因みに、私の愛する椎名林檎嬢が好きな女優として、増村作品の若尾文子を挙げています。)
さて、映画を離れて谷崎の「刺青」という作品について最近思うことがある。正直なところ、子供の頃日本文学の名作として読んだこの小説は、子供の私にはまったく解せないものだった。騙されて、刺青されて、「あなたは真っ先に私の肥やしになった」なんて感謝する女がいるんだろうかと。おそらくフェミニストあたりからも攻撃対象になりやすい、男の妄想による「女」なんじゃないかと。
しかし、今は考えが違ってきた。これは「女は変身しなければいけない。」という近代的(?)なテーマ・呪縛を先取りしていたんじゃないかと。自分を変えるための、ブランド品購入(田中康夫的だな…。)だの外国人と付き合ってみるだの整形だのピアスだの語学だの自分探しの旅だのと、様々な「変身」商売のトラップに囲まれて私たちは生きている。今年も成人式は大荒れなんだろうけど、社会的な儀式としての「成人」というものが消失した現代では、「成人=変身」の儀式すら自分で選び取らなければいけないんじゃないかと思う一方、「変身」なんてしなくていいんじゃないかとも思う。
結局、「変身」するより「騙されない智恵」の方が今の私にとっては必須のアイテムであって(例えばボッタくられない為の、いわゆる「語学」でなく具体的な単語やフレーズの暗記など)、ズルく生きる智恵と度胸を持った人だけが私を励ましてくれる。それこそ若尾文子の悪女役じゃないけれど。それにしても、清らかな役ほど精気が感じられず頭が悪そうに見え、毒々しい役ほどに生命力と智恵が備わっているように感じられるのはなぜだろう?(ねえ、吉永小百合さん!)ここに安易で浅薄なリアリズム表現では辿り着けない表現の謎があるのだとおもうのだけど…。
帰り際、受付でこの映画のチラシ(画像がそれです。)を見て気づいたことがある。この「刺青」という小説、1910年の発表(出版?)なんですね。日本史で言えば大逆事件の頃だし、ちょうど今から95年前。今から百年近く昔に登場した<刺青>という自己変革の記号の呪縛から日本の小説っていつになったら解き放たれることなのか?まあ、いとも簡単に騙されてる読者の問題でもあるにせよ…。
そんなわけで、図らずも年末に作った年賀状で使わせてもらった、我が愛すべき「若尾文子」に遠いパリの地で出会ったという私の顛末でした。
注①:1尺は約30cm。和物の寸法は尺貫法でないと締まらないので敢えてこう表記してみました。あしからず。
注②:増村作品では『赤い天使』という作品がかつてパリで高い評価を受けたことがあります。ただ、私はこの映画の芦田伸介が苦手でどうもダメなのだけど。因みに私の好きな増村作品は、『偽大学生』、『黒の試走車』、『耳を噛みたがる女』(オムニバス映画『女経』の中の一篇)といったあたりかな、他にもいろいろあるけれど。
・あけおめ(新年のご挨拶)
・1910年ごろ
あの「わざとらしい、不自然な演技」切羽詰った顔、そして何より酷いとおもうのはあの声です。
あの鼻にかかった汚い声で、音程の外れた歌を歌ってしかも「お金を取る」のはハッキリ言って詐欺です。
私の年代の人は100%サユリストばかりで、私が彼女の悪口を言うと一瞬にして「四面楚歌」になってしまいます。
でも どうしても「あの顔・あの演技・あの声」が大嫌いです。
お富さん 私は変ですか?
週末から、大作映画『北の零年』が公開されますが、若手・行定監督の演出で吉永小百合もどうなることか?でも、私は堤ユキヒコ監督と組んだら面白いかなと思っているんですけどね…。
日活の昔の女優では、芦川いずみと和泉雅子の方が生き生きしていて私は好きです。(但し、和泉雅子は今の騒々しい南極おばさんは別人だと思うようにしてますが。女も年取ってああなっちゃあ、お終いかなと。)