![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/a6/ea11de6b3e462b2ad760af03c7e49bb5.jpg)
久々、久々に感想を書きますが、久々だから(くどい!)、言いたいことを言います。まあまあ、ご容赦を!!(尚、感想のときは、敬称略です!)
①「玉藻前曦袂」(たまものまえあさひのたもと)
早い話が、「弁慶上使」に話の構造がよく似ていて、自分の娘を身替りに殺してしまう親父の話なわけなんだけど、「弁慶上使」と違うところは、その親父が弁慶という偶像的な部分も多分に入ったヒーローではなく、流浪の男・鷲塚金藤次というちょっとリアルで不幸な男であるという点で、だからこそ、竹本越路大夫の「あっち(「弁慶上使」)の方が甘いですね」という言葉になるのではないでしょうか?(因みに、わたしのなかの金藤次って、中上健次の小説に出てきそうなキャラなんだけど。)
で、二人の姫、桂姫と初花姫の姉妹と母親の後室萩の方、そして金藤次が絡んでいく後半。後室萩の方は貴族の奥方で気品が重要なんだそうですが、文雀のこの役は動きが少ないながら、貫禄が合って、やはり年増の役はこのひとだなあと思ったんだけど、咲大夫の語りは割合朗々として立派過ぎ、気品(いや貴品?)という感じのピシャリ感はなかったなあ。(尚、落語で「文七元結」の一番難しいところが、女将の貫禄を見せるところだっていうのに近いのかな?)
それと、同じく金藤次も堂々たる悪漢のような感じの語りで、じつは桂姫が自分の娘だと気づいているような含みってあまり感じなかった。
これは人形にもいえることで、玉女の金藤次が俄然良かったのは、「勝負は見えた、観念」で、初花姫を切ると見せて、桂姫を切るときの目線の気合で、それまでの腹の探り合いのはずのくだりより、後半の堂々たる立ち役という感じのダイナミックさの方が断然見栄えがよかった。
ただ、金藤次が正体を明かし、桂姫の首を抱いて、「コリャ、娘。父じゃわいの」と泣くくだりは、もうひとつ泣けなかったなあ・・・。というのも、やっぱり、ここがあまりに朗々として堂々たる語りだったからで、何かセンチメンタルになりきれないというのか・・・。悪声で声量が充分でない大夫のほうが、センチメンタルな訴えに向いているのかなあって感じは正直しましたね。
ところで、これって歌舞伎でもやったらどうなんですかね?姫二人という芝居で、舞台としても見栄えがするし、いい配役だったら面白そうなんだけど・・・。
たとえば、金藤次に富十郎か吉右衛門、萩の方に坂田藤十郎、桂姫に魁春で、采女之助に愛之助、初花姫に孝太郎か福助なんてどうでしょう?
まあ、やらないね、松竹さん!
②「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)
わたしはめったに文楽ではイヤホンガイドを使わないんだけど、今回は幕間に竹本住大夫インタビューがあるというので、久々に借りました。
で、インタビューによると、「上田村の段」は、住大夫の人生の師・薬師寺の高田高胤管長を泣かせた演目なんだそうで、渋いけどいい浄瑠璃で住大夫も好きなもののひとつなんだとか。
そんなわけで、確かに、これは素晴らしかった(CDの発売はもちろん、NHKでも放送してね!)。病身の父親・平右衛門と姉娘のおかる、出戻りの妹娘・お千代。そして、お千代の夫・半兵衛。
それぞれに文吾、清之助、蓑助、勘十郎という配役だったんだけど、一月の「壺坂霊験記」同様、住大夫・文吾コンビは枯れた感じでじつにいいですね。特に、こういうおじいさん役が出るものは泣かせます。
清之助が人間国宝・蓑助の人形の姉役というのは、ちょっときついかななんて思っていたけど、周囲のベテランと大夫・三味線のハイレベルな情緒につられて、まったく遜色がなかったし、今回は奥に控えている感じの蓑助のお千代は、門口の極めのポーズからして絶品。
最後の父親の「灰になっても、帰るな」というくだりはほんと泣けました。これは、マッチョな家父長制度の父親の言葉なんかではまったくなく、心とは裏腹の心理を当てているくだりで、こういう二重性は、発想の貧困な自民党の保守オヤジにはわからないのかも知れないなあなんて思いましたけどね。
で、次は重要な「八百屋の段」。
わたしはかねてから書いている通り、嶋大夫という大夫が大好きで、歌舞伎役者でいうと中村富十郎にあたるような実力派だと思っている。どちらも喜劇的な部分ではやや俗っぽくなり過ぎるきらいはあるものの、よく通る声と歌うような節回しになったときの気持ちよさといったら・・・。
そんなわけで、住大夫の重厚な「寺子屋」も好きだけど、変幻自在でカラフルな嶋大夫の「寺子屋」だって、わたしは大好き。(確か去年の四月は楽しんだなあ~。)
さて、嶋大夫といえば「帯屋」なんかもそうだけど、意地悪ばあさんを語ると楽しいし、凄みもある。
意地悪ばあさんと半兵衛だけが真相を知っていて、ばあさんが包丁を使った符牒をいうくだりのおっかなさって、「先代萩」の八汐なんか聞いてみたいなあって思わせるものでした。
そして、喜劇味のあるこの段の最後の最後で、ぐぐっと深刻味を増す緊張感。やっぱり緩急自在なんですよ、このひとは。
人形の方はといえば、やはり最後の門口の戸をはさんで、半兵衛、お千代の決まりがいいですね。戸にもたれかかり虚空を向いている勘十郎の半兵衛は、玉男の色男ぶりよりフェミナンな雰囲気があるなあとは思いましたけれども。
③「粂仙人吉野花王」(くめのせんにんよしののかおう)
歌舞伎の「鳴神」の逆輸入版みたいな演目。歌舞伎では、市川家の「歌舞伎十八番」のひとつなので、花道の引っ込みが典型のように、どうしても鳴神上人が主役で、雲の絶間姫の方は、人格化されない<魔性の女>という感じだけど、文楽の雲の絶間姫にあたる花ますは、もうちょっと人格化されたキャラクターで、情念的なものを持っているような気がわたしはする。
だから、文楽の女形人形には珍しく、足があるってことなのかしら?終わり方もそうだけど、花ますが主役だなあって思いましたね、わたしだけかも知れないけどね・・・。
④「加賀見山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)
この演目が、御殿女中たちの宿下がりシーズンを狙った、一種のOLものだって話は今回はじめて知ったんだけど、だから、春先に上演されるんだそうですね。
そんなことより、悪役・岩藤の人形が玉女で、ヒロイン・尾上が紋寿だっていうのは、わたしの中では勝手にイメージ逆だったんだけど、どっちもなかなかよかったですね。
歌舞伎と違って、草履打の段の岩藤が尾上を草履で打つ場面が屋内でなくて屋外だというのは、草履という小道具を考えれば、こちらの方が自然だなあと、妙に納得。しかし、「先代萩」の政岡もそうだけど、文楽で耐える女って、深~く目をつぶるものですよね。(阿古屋もそうだったかな?)
草履打の段の岩藤の大夫は十九大夫がやっていたんだけど、朗々として立派ながら、意地悪さは今ひとつ。声量でかなり大きくは感じるんだけど、なんだかちょっと物足りない。意地悪さでいえば、次の廊下の段の伊達大夫のほうがいい感じに思えた。
で、長局の段なんだけど、これは登場人物が尾上と召使のお初だけで、大夫にも三味線にもじつにしんどい段なのだそうだけど、確かにカタルシスはないし、ストレスばかりかかりそうで、演者には大変そう。
死のうとする主人と胸騒ぎのする召使の腹の探りあいな訳だし、静かなくだりだから、歌舞伎で見たときも、見物泣かせという印象もなくはない。
今回は、綱大夫・清二郎親子だったわけだけど、綱大夫のよさってわたしはあとから分かった口で、落語でいえば八代目三笑亭可楽みたいな地味で渋い語り口のひとだなあというイメージ。そんなに声を張るでなく、声量があるわけでなく、朗々たる感じもないのだけど、独特の語り分けに不思議な魅力があって、体格に恵まれて声量があるからって、聞いてるほうは面白い訳ではないということを再認識させてくれる大夫の一人ではありますね。
お初を叱って使いにやるところなんかは、怒り過ぎず諭すような、でもピシャリという感じがありました。
さて、紋寿の尾上は、割と華やかなこのひとの人形のイメージからすると抑えた情念という感じがして、お初を見送るところの情念の発露が一層感動的でした。このあたり、歌舞伎の方がちょっと水っぽいんじゃないかしら?(玉三郎を思い出して言ってます。)
和生のお初は、初めこそおきゃんなこの役にしては落ち着いた感じがしていたけれど、尾上との浄瑠璃談義くらいから調子が乗ってきた印象。
さて、尾上の死骸をお初が発見するところは、大夫三味線は千歳大夫・清治に変わっていたわけだけど、鶴澤清治の早い手の三味線とともに、お初の嘆きを見るのって、生で文楽を観る醍醐味だなあと、つくづく実感。千歳大夫は見かけと違って女性的な高い声柄だけど、ちょっと歌うようなときはともかく、急いたときの詞はちょっと息苦しい感じがするときがありますね。
で、最後の対決は、文字久大夫でいい感じに始まり、玉女の岩藤の傘を持った出なんかも雰囲気があってよかったんだけど、今回は、前も書いたとおり、ここで遭えなく退席。
★ ★ ★
まあ、いろいろ書いちゃいましたが、大阪で文楽を観るのって、何かが違います。パリでパリを舞台にした小説を読むような感じというか・・・。
イヤホンガイドの住大夫師匠のインタビューでも、芝居に出てくる地名が身近に在る大阪なんだから、地元の人たちにもっと観て欲しいというようなお話がありました。
歌舞伎以上に、浄瑠璃や落語の方が、ひとりの人が語り分けるという性質から、演出力というものを教えてくれますよね。
生ももちろんいいんだけど、ヘッドフォンで聞くと、こんなに微妙な語り分けをやっていたのかって、感動したりします。
そんなわけで、来月も文楽月間だなあ~、わたしも。 「太功記」勉強しとこっと!
①「玉藻前曦袂」(たまものまえあさひのたもと)
早い話が、「弁慶上使」に話の構造がよく似ていて、自分の娘を身替りに殺してしまう親父の話なわけなんだけど、「弁慶上使」と違うところは、その親父が弁慶という偶像的な部分も多分に入ったヒーローではなく、流浪の男・鷲塚金藤次というちょっとリアルで不幸な男であるという点で、だからこそ、竹本越路大夫の「あっち(「弁慶上使」)の方が甘いですね」という言葉になるのではないでしょうか?(因みに、わたしのなかの金藤次って、中上健次の小説に出てきそうなキャラなんだけど。)
で、二人の姫、桂姫と初花姫の姉妹と母親の後室萩の方、そして金藤次が絡んでいく後半。後室萩の方は貴族の奥方で気品が重要なんだそうですが、文雀のこの役は動きが少ないながら、貫禄が合って、やはり年増の役はこのひとだなあと思ったんだけど、咲大夫の語りは割合朗々として立派過ぎ、気品(いや貴品?)という感じのピシャリ感はなかったなあ。(尚、落語で「文七元結」の一番難しいところが、女将の貫禄を見せるところだっていうのに近いのかな?)
それと、同じく金藤次も堂々たる悪漢のような感じの語りで、じつは桂姫が自分の娘だと気づいているような含みってあまり感じなかった。
これは人形にもいえることで、玉女の金藤次が俄然良かったのは、「勝負は見えた、観念」で、初花姫を切ると見せて、桂姫を切るときの目線の気合で、それまでの腹の探り合いのはずのくだりより、後半の堂々たる立ち役という感じのダイナミックさの方が断然見栄えがよかった。
ただ、金藤次が正体を明かし、桂姫の首を抱いて、「コリャ、娘。父じゃわいの」と泣くくだりは、もうひとつ泣けなかったなあ・・・。というのも、やっぱり、ここがあまりに朗々として堂々たる語りだったからで、何かセンチメンタルになりきれないというのか・・・。悪声で声量が充分でない大夫のほうが、センチメンタルな訴えに向いているのかなあって感じは正直しましたね。
ところで、これって歌舞伎でもやったらどうなんですかね?姫二人という芝居で、舞台としても見栄えがするし、いい配役だったら面白そうなんだけど・・・。
たとえば、金藤次に富十郎か吉右衛門、萩の方に坂田藤十郎、桂姫に魁春で、采女之助に愛之助、初花姫に孝太郎か福助なんてどうでしょう?
まあ、やらないね、松竹さん!
②「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)
わたしはめったに文楽ではイヤホンガイドを使わないんだけど、今回は幕間に竹本住大夫インタビューがあるというので、久々に借りました。
で、インタビューによると、「上田村の段」は、住大夫の人生の師・薬師寺の高田高胤管長を泣かせた演目なんだそうで、渋いけどいい浄瑠璃で住大夫も好きなもののひとつなんだとか。
そんなわけで、確かに、これは素晴らしかった(CDの発売はもちろん、NHKでも放送してね!)。病身の父親・平右衛門と姉娘のおかる、出戻りの妹娘・お千代。そして、お千代の夫・半兵衛。
それぞれに文吾、清之助、蓑助、勘十郎という配役だったんだけど、一月の「壺坂霊験記」同様、住大夫・文吾コンビは枯れた感じでじつにいいですね。特に、こういうおじいさん役が出るものは泣かせます。
清之助が人間国宝・蓑助の人形の姉役というのは、ちょっときついかななんて思っていたけど、周囲のベテランと大夫・三味線のハイレベルな情緒につられて、まったく遜色がなかったし、今回は奥に控えている感じの蓑助のお千代は、門口の極めのポーズからして絶品。
最後の父親の「灰になっても、帰るな」というくだりはほんと泣けました。これは、マッチョな家父長制度の父親の言葉なんかではまったくなく、心とは裏腹の心理を当てているくだりで、こういう二重性は、発想の貧困な自民党の保守オヤジにはわからないのかも知れないなあなんて思いましたけどね。
で、次は重要な「八百屋の段」。
わたしはかねてから書いている通り、嶋大夫という大夫が大好きで、歌舞伎役者でいうと中村富十郎にあたるような実力派だと思っている。どちらも喜劇的な部分ではやや俗っぽくなり過ぎるきらいはあるものの、よく通る声と歌うような節回しになったときの気持ちよさといったら・・・。
そんなわけで、住大夫の重厚な「寺子屋」も好きだけど、変幻自在でカラフルな嶋大夫の「寺子屋」だって、わたしは大好き。(確か去年の四月は楽しんだなあ~。)
さて、嶋大夫といえば「帯屋」なんかもそうだけど、意地悪ばあさんを語ると楽しいし、凄みもある。
意地悪ばあさんと半兵衛だけが真相を知っていて、ばあさんが包丁を使った符牒をいうくだりのおっかなさって、「先代萩」の八汐なんか聞いてみたいなあって思わせるものでした。
そして、喜劇味のあるこの段の最後の最後で、ぐぐっと深刻味を増す緊張感。やっぱり緩急自在なんですよ、このひとは。
人形の方はといえば、やはり最後の門口の戸をはさんで、半兵衛、お千代の決まりがいいですね。戸にもたれかかり虚空を向いている勘十郎の半兵衛は、玉男の色男ぶりよりフェミナンな雰囲気があるなあとは思いましたけれども。
③「粂仙人吉野花王」(くめのせんにんよしののかおう)
歌舞伎の「鳴神」の逆輸入版みたいな演目。歌舞伎では、市川家の「歌舞伎十八番」のひとつなので、花道の引っ込みが典型のように、どうしても鳴神上人が主役で、雲の絶間姫の方は、人格化されない<魔性の女>という感じだけど、文楽の雲の絶間姫にあたる花ますは、もうちょっと人格化されたキャラクターで、情念的なものを持っているような気がわたしはする。
だから、文楽の女形人形には珍しく、足があるってことなのかしら?終わり方もそうだけど、花ますが主役だなあって思いましたね、わたしだけかも知れないけどね・・・。
④「加賀見山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)
この演目が、御殿女中たちの宿下がりシーズンを狙った、一種のOLものだって話は今回はじめて知ったんだけど、だから、春先に上演されるんだそうですね。
そんなことより、悪役・岩藤の人形が玉女で、ヒロイン・尾上が紋寿だっていうのは、わたしの中では勝手にイメージ逆だったんだけど、どっちもなかなかよかったですね。
歌舞伎と違って、草履打の段の岩藤が尾上を草履で打つ場面が屋内でなくて屋外だというのは、草履という小道具を考えれば、こちらの方が自然だなあと、妙に納得。しかし、「先代萩」の政岡もそうだけど、文楽で耐える女って、深~く目をつぶるものですよね。(阿古屋もそうだったかな?)
草履打の段の岩藤の大夫は十九大夫がやっていたんだけど、朗々として立派ながら、意地悪さは今ひとつ。声量でかなり大きくは感じるんだけど、なんだかちょっと物足りない。意地悪さでいえば、次の廊下の段の伊達大夫のほうがいい感じに思えた。
で、長局の段なんだけど、これは登場人物が尾上と召使のお初だけで、大夫にも三味線にもじつにしんどい段なのだそうだけど、確かにカタルシスはないし、ストレスばかりかかりそうで、演者には大変そう。
死のうとする主人と胸騒ぎのする召使の腹の探りあいな訳だし、静かなくだりだから、歌舞伎で見たときも、見物泣かせという印象もなくはない。
今回は、綱大夫・清二郎親子だったわけだけど、綱大夫のよさってわたしはあとから分かった口で、落語でいえば八代目三笑亭可楽みたいな地味で渋い語り口のひとだなあというイメージ。そんなに声を張るでなく、声量があるわけでなく、朗々たる感じもないのだけど、独特の語り分けに不思議な魅力があって、体格に恵まれて声量があるからって、聞いてるほうは面白い訳ではないということを再認識させてくれる大夫の一人ではありますね。
お初を叱って使いにやるところなんかは、怒り過ぎず諭すような、でもピシャリという感じがありました。
さて、紋寿の尾上は、割と華やかなこのひとの人形のイメージからすると抑えた情念という感じがして、お初を見送るところの情念の発露が一層感動的でした。このあたり、歌舞伎の方がちょっと水っぽいんじゃないかしら?(玉三郎を思い出して言ってます。)
和生のお初は、初めこそおきゃんなこの役にしては落ち着いた感じがしていたけれど、尾上との浄瑠璃談義くらいから調子が乗ってきた印象。
さて、尾上の死骸をお初が発見するところは、大夫三味線は千歳大夫・清治に変わっていたわけだけど、鶴澤清治の早い手の三味線とともに、お初の嘆きを見るのって、生で文楽を観る醍醐味だなあと、つくづく実感。千歳大夫は見かけと違って女性的な高い声柄だけど、ちょっと歌うようなときはともかく、急いたときの詞はちょっと息苦しい感じがするときがありますね。
で、最後の対決は、文字久大夫でいい感じに始まり、玉女の岩藤の傘を持った出なんかも雰囲気があってよかったんだけど、今回は、前も書いたとおり、ここで遭えなく退席。
★ ★ ★
まあ、いろいろ書いちゃいましたが、大阪で文楽を観るのって、何かが違います。パリでパリを舞台にした小説を読むような感じというか・・・。
イヤホンガイドの住大夫師匠のインタビューでも、芝居に出てくる地名が身近に在る大阪なんだから、地元の人たちにもっと観て欲しいというようなお話がありました。
歌舞伎以上に、浄瑠璃や落語の方が、ひとりの人が語り分けるという性質から、演出力というものを教えてくれますよね。
生ももちろんいいんだけど、ヘッドフォンで聞くと、こんなに微妙な語り分けをやっていたのかって、感動したりします。
そんなわけで、来月も文楽月間だなあ~、わたしも。 「太功記」勉強しとこっと!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます