平成28年11月27日(日)、恒例の古民家園歴史講座へ行ってきた。
今回は、真田信繁岳父という触れ込みで、「謎多き義将 大谷吉継」の題目で、講演会を聞いてきた。
私達が、以前行った、滋賀県の琵琶湖の北に、「小谷」と書いて、「おおたに」と読ませる地名があり、そこは大谷吉継の出生地だという噂を聞いて、訪ねたことがあった。
果たして、今回その地名が出てきて、納得した限りだ。
『兼見卿記』(かねみきょうき)という本によると、お母さんが、「東殿」といって、秀吉の正室「ねね」の側近で、年齢は、天正20年(1592年)に「刑部少輔甘八才」と記述してあるという。
初めて、公に記述として登場したのは、天正5年(1577年)秀吉の馬廻り衆「大谷平馬」と、『武功夜話』にあるらしい。石田三成を補佐し、九州征伐にも行っている。越前敦賀城主になり、小田原征伐の時は、有名な忍城攻めにも参加している。
朝鮮出兵も参加するが、進行性の病気により、奉公職を離れて帰国している。
『兼見卿記』によると、天正18年(1590年)母東殿は、息子の為に、病平癒の祈祷依頼をしている。
文禄3年(1594年)直江兼続宛てに、草津温泉から書状を出し、病の為、花押ではなく、印判を用いるとある。
慶長5年(1600年)7月会津の上杉景勝征伐の為に討伐軍に参加。途中、三成の息子を参加させるために、佐和山城へ行く。その時に、家康討伐の意向を告げられて、迷った挙句に、同調を決意した。
五大老の一人、前田利家が死に、嫡男利長が当主となり、家康暗殺を画策それが発覚し、母を人質に出す。それによって、前田家は家康方になる。
吉継の計略により、前田軍の進軍を1ヶ月遅らせ、関が原に着いたのは、9月22日終わったあとだった。
吉継は、9/3には関が原の西の山に布陣をしいていた。
9月15日午前8時ごろ合戦が始まる。正午頃、小早川秀秋が東軍になびき、大谷隊総崩れ、家臣湯浅五助の介錯により自害。家臣三浦喜太夫により首を埋めた。
新たに知ることもあり、歴史の面白さを知る。
病押して 義理人情に 散る雲雀
今回は、真田信繁岳父という触れ込みで、「謎多き義将 大谷吉継」の題目で、講演会を聞いてきた。
私達が、以前行った、滋賀県の琵琶湖の北に、「小谷」と書いて、「おおたに」と読ませる地名があり、そこは大谷吉継の出生地だという噂を聞いて、訪ねたことがあった。
果たして、今回その地名が出てきて、納得した限りだ。
『兼見卿記』(かねみきょうき)という本によると、お母さんが、「東殿」といって、秀吉の正室「ねね」の側近で、年齢は、天正20年(1592年)に「刑部少輔甘八才」と記述してあるという。
初めて、公に記述として登場したのは、天正5年(1577年)秀吉の馬廻り衆「大谷平馬」と、『武功夜話』にあるらしい。石田三成を補佐し、九州征伐にも行っている。越前敦賀城主になり、小田原征伐の時は、有名な忍城攻めにも参加している。
朝鮮出兵も参加するが、進行性の病気により、奉公職を離れて帰国している。
『兼見卿記』によると、天正18年(1590年)母東殿は、息子の為に、病平癒の祈祷依頼をしている。
文禄3年(1594年)直江兼続宛てに、草津温泉から書状を出し、病の為、花押ではなく、印判を用いるとある。
慶長5年(1600年)7月会津の上杉景勝征伐の為に討伐軍に参加。途中、三成の息子を参加させるために、佐和山城へ行く。その時に、家康討伐の意向を告げられて、迷った挙句に、同調を決意した。
五大老の一人、前田利家が死に、嫡男利長が当主となり、家康暗殺を画策それが発覚し、母を人質に出す。それによって、前田家は家康方になる。
吉継の計略により、前田軍の進軍を1ヶ月遅らせ、関が原に着いたのは、9月22日終わったあとだった。
吉継は、9/3には関が原の西の山に布陣をしいていた。
9月15日午前8時ごろ合戦が始まる。正午頃、小早川秀秋が東軍になびき、大谷隊総崩れ、家臣湯浅五助の介錯により自害。家臣三浦喜太夫により首を埋めた。
新たに知ることもあり、歴史の面白さを知る。
病押して 義理人情に 散る雲雀