若い頃・・・
(今も、若いを通り過ぎた幼い頭であるが・・)
道元禅師の話に、いたく、感銘を受けた。
境内を掃除していた、二人の修行僧。
ふとみると、
風で木々がざわざわと動いていた。
それを見た、ひとりの修行僧が
ーあれは、木が動いてるー
と、いう。
もう一人は
ー風がうごいてるから、木が動いて見えるので有って
動いているのは、風だー
ーいや、木が動くから、風が動いてると判るのだー
木が先か
風が先か・・・
(鶏が先か、卵が先か・・みたいな・・?)
と、結論がでないので、
ここは、道元禅師におしえてもらおう。
(お互い、自分の方が正しいと、言われると思っていたかもしれない)
そして、
木が先か・・・
風が先か・・・
道元禅師に問うてみた。
すると、
ー木がうごいたのでもない
風がうごいたのでもないー
二人の修行僧は
え?あれれ?
と、思っただろう。
道元禅師は答えた。
ーそれは、心がうごいたのだー
すごい~~と、思ったのだが
後年、禅問答を扱った落語を聞いた。
禅僧とにわか仕立ての豆腐屋の禅僧(和尚?)
ーこんなやつとは、口はききたくないーと、黙り込む豆腐屋に
ー無言の行のさなか。それでは、私もー
と、身ぶり手ぶりで問う。
みっつほど、問うと、
豆腐屋の答え(身振り)に
参りました。と、禅僧が頭をさげた。
そこで、小坊主たちが、禅僧に、どういうことだったのか
後学のため教えてくれ・・と。
ちょっと、詳しく覚えてないのだけど
禅僧は、四角い形を手でつくり、
この世の中 ど~のこ~の???と尋ねた。
すると、豆腐屋(和尚)は
もっと、大きい四角をつくり
心は、もっと広い、とか?答えた。と、禅僧が言う。
つぎに、手印??仏像の手が表してる形のひとつ
親指と中指をくっつけて・・あとの指は伸ばす・・
(だったか)
これも、仏教の意味があり、仏の心はいかに?
とか、問うた。
すると、和尚は 片手を広げた。
曲がることなく、ますぐに、のびる仏の心
と、禅僧は受け止める。
つぎに、10本の指を広げ、十戒の心は?
とか、問うた。
すると、和尚はあかんべのようなことをした。
禅僧は
十戒は、おのれの目の下にあり、と、和尚が答えられ
私は、これほど悟りを開いた方に
ー参りましたー
と、いう。
で、禅僧が帰った後に、豆腐屋(俄か和尚)に
きいてみると
ーおまえんちの、豆腐はこのくらいか?
と、聞きやがるから
ばかいってんじゃない、これくらい大きいと、
手で四角い大きさを作ってみせた。
すると、次はその豆腐は、3文か?と指をたてやがる。
やすく、みつもってくれたな、と、
最低5文だ、と(片手を広げ)教えてやった。
すると、むこうは、
10文で買ってやる、と、いう。
馬鹿にするな。3文かときいてみたり
10文で買うといってみたり
そんな奴は、信用ならねえ、売れねえ。と、
あかんべをしてやったら
頭を下げて、出て行っちまった。
(覚えてないので、だいぶ、作り変えましたが)
なんといっていいか。
道元禅師の言葉は
奥深いと思い、どう「悟るか」と、考えさせられる。
だが、
豆腐屋相手の禅僧は、自分で「悟っている」
いずれにしろ、
「どう悟ろうか」と、出した答えは
自分の中を覗き込んでいる。
それぞれの立場により、ー自分の中ーが違う。
なにか、
一つの事象に、
関連付けを求める。
豆腐屋だって、そう。
「禅僧が四角く象った手を、
ーお前んちの豆腐ーと、悟る」
あるがままを、みたら、
「四角に象った手」でしかない。
悟りとは、
あるいは、
心の凸 心の凹に
引っ掛かった物に答えを見出そうとすることかもしれない。
そこで、
最初の道元禅師に戻る。
ーそれは、心がうごいたのだー
無心・無我でないということでもあるのかもしれず
豆腐屋が四角を豆腐と思う事は、
逆に、無我の境地に近い
「一心」で、豆腐を作ってる故とも思える。
落語というのは、
時に、
大きな「真理」を
埋め込んでいる。
と、思えてくる。
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