「おや?おきたかね?」
ドアを開けて入ってきたロァはアマロにわらいかける。
女を牛耳った男の余裕がただようと、アマロはさっき伯爵夫人の名にあらぬ自分の変貌ぶりをおもいかえさせられていた。
思い返しても身の毛がよだつはずであるのに、アマロの膚は赤らみ上気のさまをあらわしはじめている。
「ふん?」
女の中におきた変革が何を物語るか、嫌と云うほど、女を女に替えてきたロァには、語るに落ちたアマロの主張である。
「お前の荷物を・・・」
ロァがアマロの前に差し出した鞄は確かにアマロのものである。
「あっているか?」
アマロは不思議な目をしていたに違いない。
(貴方が、わざわざ?)
略奪したもろもろを一塊にした中からアマロのものと思われる鞄を探し、ひとつ、ひとつ、中身をたしかめてみたことだろう。
ロァの意外な心配りに驚きながら頷いたアマロは、ロァの優しさにもうなづくことになっていた。
が、頷いたアマロは、ロァが表面上の優しさだけを与える男でもない事を知らされる。
「着る物が無いと困るだろうと、思って、慌ててさがしてみたが」
ロァの手がアマロの腕をなでた。
腕は無論、ケットの中の裸体もまだ、一瞬の上気が膚をあかくそめたままである。
「着るものより、ほしいものがあるとみえる」
ロァは云うより早く、自分の身体をアマロの横にすべりこませる。
優しさより以上の物が、心を略奪しえる事をアマロに教えるために、ロァの技巧は精緻を増してゆき、ロァは一言アマロに
「俺は、いっそうお前がきにいった」と、ささやくと、それが嘘でないことを見せ付ける遊戯に没頭していった。
「ロァの女」は、いい身分である。
ロァの部屋をぬけでて、甲板の上を歩く事も自由である。
ロァの手下も新しいロァの女に、興味の目を向けこそするが、ちょっとした女房扱いで、丁寧な言葉を吐こうとつとめるところがおかしい。
甲板を歩くと甲板に油をしみこませていた手下が声をかける。
「姐さん。散歩ですか?」
船の上で散歩もなかろうが、アマロは洋上に目をこらしてみた。
「ここは、どのあたりかしら?」
アマロにたずられると男はちょっと口を尖らせるとぐっと唇をすぼませた。
(聞いちゃ、いけなかったのかしら?)
「まあ、なんですよ・・・」
言い渋ったのはアマロが思った通りのせいであるが、
「陸地がみえていたって、とても泳いでいけるわけじゃないんですがね」
男の前置きは、アマロがここに居るしかない事を自覚しているかを探る為らしい。
その通りねとアマロがうなづくと
「もう直ぐスペイン沖です」
(ス、スペイン?)
アマロは驚きを隠しながら、さらに男にたずねてみた。
「どこにいくきなのかしら?」
男は今度こそ答えを黙った。
「親方にきいたら、どうですか?」
「そ、そうね」
男が答えなかったのはこの先の事を聞かされてない下っ端であるせいであろうが、親方に聞けと返したのは貴方はしらないの?と皮肉られた気分をあじわったせいかもしれない。が、いずれにせよ、貴方もロァの重鎮でないのだから、知りたければ自分からたずねるしかないと、男はいいたかったのだろう。
「あそ、そうね・・。ロァにきくわ」
わざとロァの名前を呼んで見せる、寅の威を借る狐の如き虚勢をはる自分が馬鹿にみえてくると、早く男の側を離れたくなる。
が、
「あの、ジニーにあえるかしら?」
親方が一度捨てた女にいかに冷たいかを知っている男は、新しい女が親方に前の女のことをききがたい雰囲気を持つことも知っている。
が、そんなことよりも、新しい女がジニーに会いたがる素振りが、不思議であった。
「そりゃあ、親方にきくわけにゃあいかないだろうけど、何であんたがジニーになんかにあいたがるんだい?」
「ああ。別にジニーだけじゃないのよ。一緒に船に居た人の事もきにかかる」
男は首を振った。
「今は、逢わない方があんたの為だろうな。
ここに居るって決まった女とは、その内あえるさ」
男の言葉をアマロはききのがしはしない。
「まって。じゃあ、ここに居るって決まらない女はどうなるわけ?」
思いの他きつい声で男がこたえた。
「あんたはここに居ないと決めたら自分をどうするつもりだ?その答えをだしたくなくて、あんたは親方の女になることにしたんだろ?」
アマロは男の言葉の意味合いに注意深く頷いてみせるが精一杯だった。
「ここにいたって、おなじことなんだけどな・・」
アマロが頷くのを見取った男はしゃべりはじめた。
「此処に居れない女はもう直ぐこの船とコンタクトする、シュタルトの船に移るんだ」
「シュタルト?」
「ふん」
男は鼻先でアマロの感の鈍さを笑った。
「俺たちは海賊だぜ。人さまの物を奪って集めてるコレクターじゃないんだ」
男が言いたい事がみえた。
「つまり、奪った物を売りさばく・・?こういう意味かしら?」
さも、たいぎそうに男がうなづいた。
「品物だけじゃない。女もだ。めぼしい女だけを残して、後は何もかもシュタルトにうっぱらっちまうのさ」
アマロはひっと言う声が漏れそうになる口をおさえた。
「シュタルトに売られた女が、どうなるか、わかるだろ?」
口を手で押さえたままアマロは頷いた。
シュタルトは海賊が捕まえ、なぶった女を安い値段で買い上げ、あげくどこかに売りとばす。シュタルトという名前からしてもちろん英吉利人なんかではない。
そうでなくとも、まかり間違っても英吉利の女を英吉利に売り飛ばすようまぬけなまねはしないだろう。と、なると、捕らえられた女は見も知らぬ異国の、おそらく淫売宿にでもたたきうられるのだろう。
だから、ここに居ても同じなのだと男はいったのだ。
「俺たちはシュタルトから、食い物や着る物をかうんだ。そうやって俺たちはいきのびているんだ。海賊家業だって、何も面白半分でやってるわけじゃないんだ。俺たちが生きてゆく方法なんだ」
アマロの侮蔑を回避したいのか男は幾分か流暢にしゃべりはじめていた。
「いいか。あんたも、此処でパンを齧り、一滴の水を飲んだその時から、うっぱらった女と船の中で死んだ船員の犠牲で命を繋いでるんだ」
アマロは大きく目を見開いていたに違いない。
「まあ。びっくりしたんだろうけどな、自分をせめるんじゃないよ。あんたがすることは、精一杯親方にきにいられて、どこにもうりとばされずにすむことさ」
男の妙な苦言にアマロは呟く。
「まだ・・まだ・・淫売宿にうっぱらわれる方がましよ・・。せめて、だれかれお構いなしに犠牲になんかしやしない。そのほうが・・」
アマロの呟きを聞きとがめた男はにやりとわらってみせた。
「だったら、今すぐにでも下におりてみるか?淫売宿に行く練習でもしてみるか?」
男の手がアマロの細い腕首をつかんだ。
蒼白な顔で男の手を振り解くアマロの様子に男が高く笑い始めるのとアマロは自分でも思わぬ言葉を口走っていた
「私にそんなことをして、貴方が果たして無事にいれるとおもってるの?」
アマロのおどしに男は手を離して見せたが
「親方の・・・あはは」
と、男は笑い続けた。
「親方の女で居たいのが・・本音じゃないか・・・」
「ち・・ちがうわ」
「ちがわしない。都合の悪い時だけいやだ、いやだと言って見せるけど・・本心はもう、すっかり親方の女そのものじゃねえかい?」
男の言う通りかも知れない。
唯一の特権であるロァの女であることをかさにきて、男に脅しを掛けれると言う事自体ロァの女である証拠である。
「他の男になぶられたくねえなら、姐さん。馬鹿をいっちゃあいけねんだよ」
それは、ロァの女であっても平気で掠め取ると言う事を含んでいる。
「貴方。いまの言葉をロァにはなしてもよくって?」
今度はあっさりロァの女としてのアマロの怒りがわいた。
男は愉快そうにわらった。
「はなしてみるがいいさ。うっぱらわれた方がいい。そういってみるがいいさ」
ロァにそういえば、ロァはアマロをそうすることを男は知っているというくちぶりだった。
「だけど、あんたが親方のもので居ようとする限り俺たちはあんたを尊重するし、
手を出したりしゃしねえ」
アマロの心の底にある恐れをみぬき、それでも、その恐れはロァの女である限り突き崩されぬ安泰なのだといいきかせてみせた。
身体を汚すだけだったはずの行為は既に、アマロの精神もけがしていた。
多くの犠牲の上でアマロの女であり続ける事は、アマロの精神をいつ、切れるか判らない綱の上を渡るより疲労させると知った。
そんなアマロだったが、それでも、これ以上他の男に身体を投げ打つことだけは、嫌だと思う自分をみすえさせられると、精神を腐敗させてもいいとさえ思えた。
それに、男の言うとおり、もう、此処で水の一滴を飲みパンを齧ったアマロはもう既に人の命を犠牲にして生き抜いてしまっているのだ。
精神も肉体も穢れきった女になり下がり、それでも、生きていたいと思う、底からの欲求に素直に従うことだけが唯一魂だけは、汚さずにすむと思えた。
アマロは心のそこで神に祈った。
『与えられた生をいかしてみせる。どんなことがあっても、自ら死ぬことだけはしない。是でも生きるか?それが貴方が下さった試練なら、たった、それだけをあかすためにだけでも、いきぬいてみせる』
気丈な意志な裏側でアマロの精神は死に逃げ込むことを何度、宥めた事であろう。
「生きなきゃ・・」
アマロの精神は強くならざるを得なかった。
自分をして、多くの犠牲の上で生きる事を卑下するのでなく、感謝するしかない。
卑屈な精神は論理ににげ、かろうじて、均衡をたもった。
男はアマロの呟きに気がつくと、小さく笑った。
「どいつもこいつも生きてく事に必死なんだ」
男の言葉はアマロの今までの「生きる」がいかに安泰でしかなかったかを
あざわらう。
確かに今ほどアマロは生きる事に必死になっていなかった。
なにおももふりすてて、生きる事にしがみつくしかない不幸と無縁だった女は
ただ、安穏と幸せな生活に浸りこんでいた。
今ほど己の命をいとしむことも知らず、何物にも変えがたい唯一の執着である事も知らなかった。
それを知ったのはジニーも同じだったかもしれない。
命に必死になれるという意味においてアマロもジニーも、幸せな女であったかもしれない。
ジニーにはやはり、会いたいと再び思ったアマロはやっと一つの事実にきがついた。
ロァはジニーの事で「公爵夫人のおめざわりを・・」と言った。
その時のアマロはロァがジニーをどうするつもりかなぞよりも、自尊心が先立った。
だが、結果はロァのその言葉をふさいで、ロァをやり込めようとするアマロの癇高さがロァの恣意をいっそうそそっただけだった。
だが、今、アマロにロァのその言葉が意味が判った。
目の前の男に言われた
―品物だけじゃない。女もだ。めぼしい女だけを残して、後は何もかもシュタルトにうっぱらっちまうのさー
「あ」
気がついた事実にアマロは息を飲み込んだ。
ロァはジニーをシュタルトに売渡すつもりでいる。
さっきまで膚を合わせ、ロァの独占、オンリーだった女に平気で「下へ行け」
と云う男が、シュタルトに売渡す事に何の痛みをかんじよう。
だが、是がロァがジニーに飽きて、顔も見たくないという結果なら、アマロの胸にこんな痛みが走るわけが無い。
ロァが「公爵夫人のおめざわりを・・」と、いったように、アマロのせいなのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます