憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

委細は判らない。 判る筈もない。

2022-08-30 11:33:49 | 憂生日記 その1

不埒な男の思考であるが、

ひとつ、思い出すことがある。

その昔、母が朝永 振一郎から

サイン?をもらった。

食事中に何か紙はないか?と尋ねられた母は

ありあわせのちょっと分厚い紙(端切れ?)を

もっていったところ

2枚「なにか」を書いてくれた。

そして、

「困ったことがあったら、売りなさい」

と、言われたとの話だった。

1枚はノーベル物理学賞の

方程式・・・で、後に

それを欲しいという人が公式を調べてきて

間違いない、と、50万で、と言い出したが

断わった。(と、いう話を聞いている)

そして、起業に当たって

家にある金目のものを売りさばいて

道具や材料などなどの操業資金にあてた。

この2枚のサイン(色紙に表装しなおしている)も

売ればいいと言われたのだが

ーいや、もっと、どうしようもなくなってからで良いー

と、断わった。

その2枚目のほうの言葉。

親死ね 子死ね 孫死ね

物騒な言葉であるが

良寛の言葉である由も書いてあった。

 

物理学者の座右の銘??

親死ね 子死ね 孫死ね・・が?

それを良寛が言っている?

 

いったい、どういう思いであるのか?

ぼんやりとわかったのは

人間 いつか死ぬ

ー自然ーという法則に逆らう事は出来ない。

ゆえに

物理学者もー自然ーの大きさを意識した?

と、言うことくらいだった。

今に成ると

その自然(摂理)に人間が介在していくとしたら

自らが主格の物言いだけかなと思う。

親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ

では、自然の采配 主格は「自然」だろう。

どうあがいても、

人間が主格になれない事態であるが

「思い」だけなら、

親死ね 子死ね 孫死ね

と、いう命令形・・

これだけが、自然を超越できる「思い」に見えた。

 

そんな折

を、読みなおしてみると

親死ね 子死ね 孫死ね

は、執心から解脱するような言葉にも思えてくる。

 

死にたくない。死んでほしくない。

それは、自然の摂理の前では

どうにもかなえられないことでしかない。

かえって、その思いをもつばかりに

ー執心ーにもがく。

それを解き放つがごとく

親死ね 子死ね 孫死ね

と、言い切った良寛なのか?

 

委細は判らない。

判る筈もない。

 

物理学者は

その研究とはずいぶんかけ離れた

いにしえの和尚の死生観に

打たれるものがあったんだろうと思うだけである。

 

 



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