物語を書いていく中で
逃げ場をうしない
性におぼれる主人公を書くときがある。
このときに、
おぼれている状況をそのまま書く。
憂生が不器用なせいでしかない。
いかに性におぼれているか、
その感覚に陶酔していく事実をもちだしてこないと、
「おぼれてもしかたがない」
「それが逃げ場所になる」
を、説得、納得させられない。
このため、全体的に読んでくれたら
必要な場面だから、
「いやらしさなど感じず官能小説が嫌いな私にもよめました」
と、いうこともあったわけだけど
いつだったか、文章力があり、表現力も卓越している
ぜひとも、師事させてください・・・(ほかのとごっちゃになってるかな)
と、小説を書いてらっしゃる方から申し込まれた(と、いうのか?)
憂生はもしも、添削をゆるされるなら
こてんぱてんにやっつける(自分の拙さたなあげにして/笑)
人生観から物申すので、へたすると、設定から
構成の甘さがみえてたらここもたたく。
つまり、作品だけを批評していくのでなく、
その人の人生観も問い直す。
こんな憂生がいることなぞ思いつきもしない。
やんわりとことわりをいれた。
憂生の作品は性表現多いですから・・。
返ってきた答えは
官能表現もすばらしく、それも美学であり
恥じることではありません。
はあ・・・。
憂生が思ったとおりというか・・・・。
全体を通して読んでいるのだろうけど
テーマ部分に触れてない。
文体や表現力や構成力などという
どっちゃでもいい(わけでもないが)ことを師事したいだけ。
憂生が周五郎を師事したというか
得たことは、
人間への暖かいまなざし。真摯さ。
生き様をみつめていく視線。
いわば、物語を書き起こしていく根底部分だった。
そういうテーマというか、訴えたいことが
こちらの心、琴線にふれた。
結局、いかに、生々しく現実味のある(心理とかも)ものにしていくことで、
たとえば、
性におぼれても仕方がなかった人間の凹みとか、
そこからたちなおっていく人間を描く。
おぼれても無理ないところをかきながら、
そこに、本当の充実をおぼえない虚しさ。
おぼれても無理ない境地をかくからこそ
よくぞ、そこから立ち直っていった。とも。
いろんな作用があるから、かなり丁寧に書く。
それをそのままの外面しかよみとれない。
そういう意味合いで
囮の断りをいれれば、
見事にそこにひっかかる。
その程度の受け止め方しかできないで、
見た目だけを師事したいというのが笑止で、断った。
(まあ、憂生くらいの才のものに師事しようというのもすでにどうかであるが)
本当に良いと思ったら黙って、師事すりゃいいじゃん。
こっちにいってくるということは、
自分の師事したい部分が
こっちが目指してることに合致しない場合は
こちらの目指していることに改めるという覚悟も含まれる。
自分にとって師事したいとこだけを得たいなら
黙ってやっておけといいたい。
こっちゃにいうてくな。
あげく、結果的に師事したいとまで思ってるはずの人間を侮辱したことになるとも分かってない。
世の中には、こういう
誰かに付き従うタイプがいるもんだと思う。
どらえもんのスネオみたいなタイプ。
逆にスネオタイプに付き従われるタイプ。
どうも、憂生は
妙なポリシーがある。
男はいざというとき。
つきしたがいもせず
つきしたがわれもせず
およそ役にもたたなさそうで
おるかおらんかわからん。
だが、いざとなったら、
「誠」の一字。
しゃ~~から。
いざでもないのに、
あっちゃにへっつき
こっちゃにへっつき
してないで、
あっちゃをひっつけ
こっちゃをひっつけ
してないで
よしと思ったら黙って
師事して
欲しいとこだけとっていって、
たかが、文章。
こんなもんが
いざ、なわけねえじゃん。
せめても、うっかり
スネオ的生き方をすんなってんだ。
別段、上にかいた人だけのことをいうわけでなし
小説書くということだけでもない。
あ、ぐだぐだいったけど
いい言葉があった。
鶏頭なるとも牛尾なるなかれ・・・。
およそ、考えのない尻尾より
考えのある頭になるべし。
でもある。
憂生もいろいろ考えよう。
そして、とどのつまり、自爆して、こう言うことになる。
馬鹿の考え、休むに似たり。
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