つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

飛べないはずが飛んでいる

2022-11-25 06:38:12 | 日記
農業における貴重な存在が、ミツバチの仲間のマルハナバチ(丸花蜂)だ。
特にナスやトマトの受粉には欠かせないそうだ。
そんな彼らの体つきは、ずんぐりむっくりの体にちっちゃな羽という組み合わせで、ちょっとユーモラスでさえある。
米国の化粧品会社創業者のメアリー・ケイ・アッシュは、
自社のマスコットにこのマルハナバチを用いるとともに、こんな考えを披露している。

航空力学的にはマルハナバチは飛べるはずがない存在
 でもマルハナバチは航空力学なんて知らないからとりあえず飛び続けている

 これは、人は何か行動を起こす時に、それができるかどうかを考えて取り組んではいけないという意味だ。
 やる前から難しそうだなとか、そんなこと出来るわけないと考えていたら、何もできるはずがない。
 誰かがマルハナバチに、
 君たちは体のわりに羽が小さすぎるから飛ぶことは出来ないんだよと教えたら、彼らは飛べなくなるかもしれない。
 だが幸い、誰もそんなことを教えていない。
 だから彼らは、今日も元気に飛び回って受粉活動をしてくれている。 

 なお、マルハナバチは独自の飛行方法を編み出して飛んでいるそうだ。
 人も同様に、やる前から絶対無理っなんて考えなければ、ちゃんと工夫や改善を続けて出来上がるものらしい。
 壁にぶつかったら、マルハナバチのことを思い出してもいいかもしれないな。
 

節(ふし)を考えてみる

2022-11-24 06:43:07 | 日記
樹木にはふつう節(ふし)がある。
それが材木となると、節のあるものとないものがある。
一般的には、節ありは普及品で、節なしは高級品のようだ。
だが、こんな話を聞いた。

◆自然には逆らわないでその恩恵にあずかる生き方がある
 宮大工の故西岡常一氏の語りだ。
 奈良の法隆寺は檜づくりで、世界最古の木造建築です。
 607年築ですからもう1400年以上経過しているのにいまだにびくともしていません。
 対して同じ檜づくりでも、日光東照宮は1617年の建物です。
 建築後まだ400年ですが、もうがたがたで先年大修理を行いました。
 同じ檜づくりなのにどうしてこんなにも差があるのか調べてみました。

 すると、東照宮の柱や梁はまっすぐな檜の節のない良材ばかりを用いてぜいたくにつくってありました。
 それに比べて法隆寺の柱や梁は、山から切り出してきたそのままの(乾燥はさせるが)節だらけの檜なんです。
 木には節があります。
 節があるからこそ、そこから枝が出て葉が茂り木が成長するのです。
 その節を活かして使うか、使わないかで千年も耐久力が違ってきたのです。
 優れた大工は、材木を用いるときに、まっすぐな木は曲げずに、曲がった木はその木が必要な場所に使うのです。
 これは人でも同様なようです。
 人には節があってあたりまえ、その節に逆らわないような用い方をすべきです。

 →なるほど適材適所というやつですね。でもそんな見極めをする立派な宮大工さんはなかなかねぇ・・・
 

入口は よいよい 出口は こわい

2022-11-23 06:52:24 | 日記
私事なのだが、加入している医療保険(共済)の給付金受給事由が発生したので、その申請をした。
そこで、こんなことを感じた。
なおおいらは、過剰な精神的不安はないし、クレーマーでもないと思っている。

◆加入は極めてスムーズだが受給には少しハードルがある
 給付金の受給申請をしたところ、申請が拒否(または留保)され申請書類一式が返送されてきた。
 その理由はただ1点で、「要配慮事項を含む個人情報の取得・提供に関する同意書」を提出しなければ、
 給付金は支給できないということだった。
 保険料を支払っているのに給付金を受給できないのは困るので、すぐに当該同意書を返送しておいた。
 なので、その内には給付金は支払われることだろう。

 ここで保険(共済)加入時のことを思い起こしてみた。
 たしか、住所・氏名・生年月日を記入し、2つ3つのチェックを入れるだけだった。
 保険料引き落とし口座は、既存契約があるので不要だった。
 つまりは、入口(保険契約)は間口が広く非常に簡易となっている。
 対して出口(給付金申請)は、申請書類一式+当該同意書が必要とややハードルが高く設定されている。

 むろん不正申請は拒否しなければならない。
 だが、全国のマイナンバー取得状況でみる通り、個人情報に関し過剰に警戒する人々も多数存在する。
 そういった人々は、このハードルで給付金申請をあきらめてしまうかもしれない。
 そんな不幸を避けるためにも出口で求める書類は、
 入口でも説明しておく方が無難だと思うが、それは過剰なコンプライアンスなのだろうか。
 

晩飯を食う

2022-11-22 06:43:57 | 日記
人は一日に三度飯を食う、まあなかには二度の人もいるにはいるが。
これは、食事が好きで楽しみでしょうがないという人もいるが、ほとんどは食べないと生きていけないから食べている。
それが何を意味するかと言うと、生きている人間にはやるべきことがあるということだと弘兼兼史氏に教わった。

最愛の人が死んだ日にも人間は晩飯を食う
 こう言ったのは、作家の山田風太郎だ。
 まったくもって、その通りだと思う。
 死んだ人(やペット)のことを考えれば悲しい、だがいつまでも悲しんでばかりはいられない。
 生きている人間には、毎日やらなければならないことがたくさんあり、晩飯を食うのもその一つだ。
 これに対し、死んだ人(やペット)はもうやるべきことは何もないようだ。

 将来の自身の死に関してはどうだろう。
 長く生きていればいるほどそれだけ死に近づくということだな。
 うまく死ねるだろうか。
 そこは大丈夫だそうです、誰でもみんないつかは死ぬ。
 みなさんが通って行った道だから、我々にもできないはずはない。
 だから、今の自分の人生に感謝して楽しんで生きれば良いようだ。
 楽しく生きることが、楽しく死ぬことにつながるそうだ。
 晩飯が出来上がるまでの、「一炊の夢」に微笑みながらこの世を去りたいものだな。

 と言う心構えは持ちたいものだが、まだまだやらねばならないことはたくさんあるなぁ・・

 

上手にあきらめる

2022-11-21 06:45:46 | 日記
枡野俊明氏、曹洞宗のご住職だ。
多くの著作があり、そこからはずいぶんと学びを得られる。
そのひとつ、自分の心を縛るものからの解放です。

◆気づかなかったことに気づけたり見えなかったものが見えるようになる
 自分の心を縛りつけているのは、他人との比較。
 出世競争で同期には負けたくない。
 お隣よりもいいクルマに乗りたい。
 ブランド品の数では、彼女には絶対に勝ちたい。
 そういう他人との比較が、自分の心を縛るのです。
 
 それを解放するひとつの方法が「あきらめる」です。
 「あきらめる」は、決してギブアップではありません。
 うまく「手放す」のです。
 勝ちたい、負けたくないという思いをあきらめ手放すのです。
 少しのあいだ脇に置いてみたり、ちょっとそこから離れてみる。
 なにものにもとらわれない、心をとどめない自由な状態です。
 座禅と通ずるものもあるようです。
 道元禅師の言葉にある通り「放てば手にみてり」なのです。
 欲望や執着を手放したとき、本当に大切なものが手に入るものです。

 →有難い教えで心に止めておきたいものだ。
  だがおいらは、まだまだ物欲も競争心も持ち続けたいものだ。
  教えを実践するのは、もう少し枯れてからにします。