<2008年11月に書いた以下の記事を復刻します。>
一般に、物事を白か黒か、イエスかノーか、オール オア ナッシングで考えようとするのをデジタル的思考と言う。これに対して、物事を割り切らずに、全体的に捉えようというのがアナログ的思考と言えるだろう。どちらにも長所、短所があると思うが、世の中はデジタル化が進んでいるためか、思考法までデジタル的になってきたようだ。
例えば「勝ち組」「負け組」という言葉がある。最近はマスコミもそういう表現を自粛しているようだが、私はこの言葉が大嫌いだ。何を基準にして「勝ち組」「負け組」と言うのか。スポーツやゲームなら、勝った負けたは一目瞭然だが、人間の人生をそんなに簡単な言葉で定義できるのだろうか。
地位が高く年収も多い人は勝ち組で、そうでない者は負け組なのだろうか。ところが実際は、勝ち組でも負け組でもない中間層の人が大勢いるのだ。しかし、デジタル的思考が進むと、中間層の人たちまで勝ち組か負け組に仕分けされかねない。世の中は「格差社会」が進行しているから、少数の勝ち組と多数の負け組に分化されるかもしれない。全てのものを0か1か、白か黒かで判断しようというデジタル的思考とはそういうものだろう。
ところが、白と黒の間には膨大な“灰色”があるのだ。アナログ的思考はこの灰色の部分を重視する。先ほどの例でいくと、勝ち組でも負け組でもない中間層の存在を大切にするのだ。つまり、デジタル的思考は白か黒かだが、アナログ的思考は白か黒か以外に、灰色の存在を認めるのだ。
だから、アナログ的思考の人間は分かりにくく曖昧だと言われる。イエスなのかノーなのかはっきりしない。一方、デジタル的思考の人間は分かりやすい。時代がデジタル化しているから、余計にこういう人間は増えてくるだろう。しかし、それが世の中にとって良いことだろうか。単純で単細胞の人間だけが増えてくるような気がしてならない。クイズ番組ではないが、何もかも「ピンポン」と「ブー」で仕分けする風潮にあるのだ。物事をじっくり考えるという姿勢が失われつつあるように思える。
ここで少し視点を変えるが、アメリカは最もデジタル的思考の強い国である。彼らの考える経済的「グローバリズム」というのは、世界を合理化、効率化、市場化しようというものだが、この価値観だけで全てを律しようとしているようだ。しかし、経済にも色々な価値観があって、アメリカ型資本主義が全てではない。国によって資本主義のあり方はさまざまである。特に発展途上国やアフリカなどの最貧国では、急激な市場化や効率化などは無理な状況がいくらでもある。ところが、アメリカという国はよほど自信があるのか、自分の価値観を「イエスかノーか、白か黒か」と押し付けてくる所がある。 しかし今回、アメリカ発の金融パニックで、アメリカ人が考える資本主義、特に金融資本主義がいかに危険であるかを全世界に示したのだ。これはデジタル的思考の失敗だと言える。
効率化、合理化は企業にとって良いものだ。また、規制緩和や構造改革も良いだろう。しかし、社会全体にとってそれが全てであろうか。国や社会は、効率化や合理化だけで律することはできない。国や社会は「企業」ではないのだ。さまざまな要素を抱える「共同体」なのだ。したがって、デジタル的思考で白か黒か、イエスかノーかで律することはできない。もし、そういう思考法だけでやっていこうとすれば、何もかも優勝劣敗、弱肉強食の世の中になってしまうだろう。それは社会不安をもたらすだけである。
このように考えると、戦争とか大地震などの緊急事態には“デジタル的思考”は効果をあげるが、平時においては、いつも全体を捉えようとする“アナログ的思考”の方が優っていると言えよう。もう一度はっきり言う。物事は白と黒だけではないのだ。その中間に膨大な「灰色」があるということを認識すべきである。(2008年11月15日)