<以下の文を一部修正して復刻します。>
散歩をしていたらたまたま同期生のSさんに出会った。彼女とはW大学仏文科で一緒だったが、今は偶然同じ地域に住んでいる。Sさんと立ち話をしているうちに昔の文学部を思い出したが、50年以上も前の文学部というのはそれなりに人気があったと思う。今はどうだろうか。
その頃はフランス文学とかロシア文学などに一定の魅力があったと思う。戦後の混乱期を経て欧米の文学や実存主義、はてはシャンソンなどの大衆文化にも惹かれたものだ。しかし、今は仏文科や露文科などがほとんど存在しないという。つまり、そういう専門分野の存在価値がなくなったということか。
世の中はますます合理主義や実利が尊ばれ、そんな“文学趣味”は無益だということか。外国文学よりも外国語、つまり会話やヒアリングなどが重視される。それは実社会の要請だから仕方がない面もあるが、なにか寂しい。夢がなくなった感じがする。
こんなことを言うと、お前は50年以上前の学生で今は老人だからと批判されそうだが、社会全体がなにか“考える”ことを軽視しているように思う。現代社会は効率が第一で、合理主義と実利を尊ぶから、そんな考えたり思索に耽ったりすることは無益で無駄だというのか。
しかし、昔の人が言ったように「人間は考える葦(あし)」である。現代は、あまりに考えなくなった。考える前に、いろいろなデータをコンピュータにかけて結論を出してしまうのだ。これは「考える」のではなく「操作する」ということだ。だから、現代人はますます考えなくなった。
ロダンの有名な彫刻『考える人』を見て、今の子供たちはどう受け止めるのだろうか。まさか「馬鹿の考え、休むに似たり」と思わないだろうか。スマホやコンピュータなどに慣れきった現代の子供たちは、あの彫刻を見て「そんなに悩まなくてもいいよ」と思うのだろうか。それは分からないが、現代人はあまりに考えなくなった。
それは今のご時世で仕方がないとしても、はっきり言えるのは、人間がパターン化、画一化してきたということだ。考えなくなったから“生物化”してきたということか。これは危険である。テレビやマスコミの扇動で簡単に誘導されやすい。現代社会は「ファシズム」に最も適した状況にあると言ってよい。
文学部のことから話がずいぶん飛んでしまったが、自分で考えることを止めた大方の現代人は、ますますパターン化、画一化していくだろう。要するに“独自色”がなくなっていくのだ。いい例が、今は何でもと言っていいほど「マニュアル」に頼る。マニュアルが悪いと言っているのではない。
しかし、多くの人がマニュアルに頼りすぎて自分で考えようとしない。もしマニュアルにないと、それは「想定外」だと片付けてしまう。想定外? こんなに便利な言葉はない。考えようとしない現代人は、すべて想定外で片付けてしまうのだ。それなら「占い」に任せた方がいいだろう!(笑)
どうも話がまとまらないが、自分が本来言いたいことに収斂してしまったようだ。話に脈絡がなかったことは謝るとして、昔の人、ブレーズ・パスカルが言ったように『人間は考える葦』だということを強調して終わりたい。