<2012年8月29日に書いた記事を原文のまま復刻します。>
サハリン・樺太へ旅行したのは(2012年8月)、第2次大戦の終戦時に、集団自決した9人の乙女を弔うことが最大の目的だった。つまり、慰霊の旅である。 1945年8月、旧ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し、樺太などに侵攻してきた。そして、日本人は至る所で殺された。
樺太南部の西海岸に真岡(まおか)という町があったが、今はロシア領・サハリン州のホルムスクと言う。8月22日の午後、私はガイドのLさんと共に州都ユジノサハリンスクを立ち、車で真岡へ向かった。 約2時間の行程だったが、途中 美しい田園地帯が広がっていたのが忘れられない。真岡は昔から港町として栄えていたが、今でも漁港として賑わっている。海の近くまで山裾が迫り、その小高い丘に当時 郵便電信局があった。
1945年8月20日早朝、ソ連軍は艦砲射撃を皮切りに真岡へ進撃してきた。この時、日本はすでに連合軍に降伏していたが、ソ連は樺太全土、さらに北海道北部の占領を目指していたため、そんな“終戦”などは眼中になかった。ここから悲劇が起きる。大勢の日本人が殺され、真岡郵便電信局にも砲弾がぶち込まれた。
“終戦”になったので、女性局員にはすでに疎開・引き揚げ命令が出ていたが、多くの乙女らはなお電話交換業務に従事していた。それだけ、電話交換というのは重要な仕事だったのである。いわば、樺太住民の“生命線”だったのだ。 しかし、ソ連軍の急速な進撃によって追い詰められた局員は、もはやこれまでと死を選ぶ。彼女らは用意していた青酸カリを飲み、9人が集団自決した。まさに大和撫子の最期である。
真岡郵便電信局は今や跡形もなく、代わりにロシアの銀行と郵便局が建っていた。平和そのもので、戦争の悲惨さなどは微塵も感じられない。しかし、67年前の夏、この地で大勢の日本人が殺され、郵便電信局の9人の乙女が自決したのである。われわれは戦争の悲劇を絶対に忘れてはならない。 (2012年8月29日記)
今は平和で穏やかなホルムスク港
真岡郵便電信局跡地に拝礼する筆者
近くの鎮魂の碑
真岡町の遺族らの手に成る
廃墟と化した旧王子製紙・真岡工場
39才の主婦です(^^)
私の父は樺太に5才までいました。
終戦直後、必死で逃げた祖父母と父たちは助かりましたが、旧ソ連軍に襲われ親戚の兄、電話交換業務をしていた姉は亡くなったそうです。
父は4年前に他界しましたが『樺太に行きたい』が亡くなる前の口癖でした。
そんな経験をしてても、仲良かったロシアの方々、ロシアのバターの味が忘れられなかったみたいです。
いつか…父を連れて行きたいと思います。
それまではコチラに写真を拝見に伺いますのでヨロシクお願いします(*^^*)
いつでも、どうぞご訪問ください。
父上は私とほぼ同年輩だと思いますが、今はわりと簡単に樺太へ行けますね。残念でした。
親戚に電話交換手の方がおられたのですか。本当に無念な気持になります。