ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『緑はよみがえる』を観て

2016年05月19日 | 2010年代映画(外国)
またミニシアターで映画を観てきた。題名は『緑はよみがえる』(エルマンノ・オルミ監督、2014年)である。

1917年、冬。第一次世界大戦下のイタリア・アルプス、アジア―ゴ高原。
雪の山中に、イタリア、オーストリア両軍ともに塹壕を掘り戦況は膠着していた。
敵は姿を見せないが、その息づかいが聞こえるほど近くにひそんでいる。
劣悪な環境の塹壕に押し込められた兵士たちは、いつ落ちてくるかもわからない砲弾に怯え、戦意も失い、家路につくことだけを願っていた。
彼らの唯一の楽しみといえば、家族、恋人から送られてくる手紙だけだ。

そんな時、厳しい戦況を知らない平地の司令部が出した理不尽な命令を携え、少佐と少年の面影を残す若い中尉が前線へとやってくる。
通信が敵に傍受されているため、新たな通信ケーブルを敷けというのだ。
命令を受けた大尉は、「土地の起伏も考えず地図をなぞっただけの計画だ。
この月明かりの下で外へ出れば、狙撃兵の餌食だ!」と強く抗議し、軍位を返上してしまう。

後を任されたのは何の経験もない若い中尉だった。
彼は、想像とは違う戦争の酷薄さと、無力感に打ちのめされながらも、母への手紙にこう綴る。
「愛する母さん、一番難しいのは、人を赦すことですが、人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょうか」と・・・・
(公式ホームページより)

ファーストシーンで、雪深い有刺鉄線の向こう側から手前に向かって、イタリア兵がナポリ民謡を歌う。
それに対して、こちら側の兵がほめたたえ、もっと歌ってくれるよう催促する。
だから、この映画の主体はこちら側にいる兵たちかな、イタリア映画なのに、と思考がこんがらがる。
それに輪をかけて、シーンからは、イタリアがどこの国とどこで戦争をしているのかの説明は一切されない。
映画自体で状況が説明されないと、その言わんとする内容が、国や世代とかで意味不明の事柄となってしまう。

塹壕の向こうには見えない敵がいる。
この塹壕の中では、いつ敵に襲われるかわからない不安感が漂っているはずなのに、なぜか兵たちの表情は静かである。
会話が少ない分、個々の兵の心境が実感として伝わってこない。
と思っているうちに、寝不足があるのか私は眠くなってきてしまった。
これではいけない、ましてやエルマンノ・オルミ監督の作品を、意識して観にきたから。
あの『木靴の樹』(1978年)や『楽園からの旅人』(2011年)で、監督“オルミ”の作風は多少知っているつもりである。
だから作品全体は、当然ゆったりと静かに流れると予測していた。
そしたら、思ったとおりの雰囲気で、それはそれでいいのだけれど、睡魔の方が勝ってくる。

“オルミ”は、父にこの作品を捧げているように、父の戦争体験を描くことによって、
戦争の愚かさと、それに対する人間の命の尊さを描いているはずなのに、私の観賞態度がなっていなかった。
そのため、“オルミ”の思いが深く読み取れない。

わずか76分の作品なのに残念な鑑賞になってしまったので、DVD化されたら再度観直そうと思っている。
コメント (2)
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