イランから国外亡命したクルド人監督、バフマン・ゴバディがトルコで撮影した『サイの季節』(2012年)を観た。
1977年、イランの首都テヘラン。
詩集『サイの最後の詩』を出版したクルド系イラン人の詩人サヘル・ファルザンは、妻ミナと仲睦まじく暮らしていた。
そんな中、お抱え運転手であるアクバルが横恋慕し、ある日、激情にかられてミナに告白。
それを理由にアクバルは、集団暴行を受けて夫婦から離される。
1979年、イラン・イスラム革命が起こり体制が一変する。
ミナに執着するアクバルは、サヘルが反体制的な詩を書いたと事実無根の密告をした。
それにより、サヘルは国家転覆罪で禁固30年の刑に、ミナも共謀罪で禁固10年の刑に処せられる。
アクバルは、新政府の指導者的存在という立場を利用して、ミナに早期釈放を持ちかけるが、ミナは頑なにこれを拒む。
10年後、刑期を終え出所したミナは、服役中に授かった双子の子供とともに夫の釈放を待ちわびていたが、
ある日、サヘルが死亡したとの通知を得る。
打ちひしがれるミナの前に、まだ思いを引きずるアクバルがやってくる。
2009年、サヘルは30年の間、拷問にも耐え抜いて、やっと出所することができた。
しかし、彼は政府により死亡扱いにされている。
長年、心身ともに痛めつけられ、抜け殻のようになっていたサヘルだったが、最愛の妻ミナへの思いを胸に、彼女の行方を捜し始める・・・・
この映画は、クルド人詩人サデッグ・キャマンガールをモデルに描いた実在の話である。
しかし、ゴバディ監督はそれを社会劇とはせず、サヘルとミナの孤独感、喪失感を焦点にして描く。
この二人の無感情に近い沈黙の表情に現れる30年の歳月の悲しみが切ない。
と言っても、二人のそれぞれの思い、感情を喚起させる意図か、全体に会話が極端に少ない。
そして映像を主体に、時代を前後に織り交ぜながら物語を進めていく。
そのため、映像と映像のつなぎでピンと来ないというか、よくわからないところがある。
だから、もう一度見直してみた。
映画は作り手の思いと、それに対して、情報として受け取る側の処理能力が十分に追いつかない場合がある。
だから、その疑問を持って再度観てみれば、わからなかった部分が納得できる場合がある。
まさしく、この映画はそのような作品であり、観直した結果の印象は言い難いほど味わい深い。
空からたくさんの亀が逆さに降ってくるシーン。
車の中に馬が首を突っ込んでくる、その時の目のクローズアップ。
そのイメージが、原作の詩と繋がっている。
ラストで、広いひび割れた平地の遥か向こうの方にいる者は誰か、アクバルか。
そこに向かってサヘルが歩いて行く。
死んでいるはずの二人が、そのようにして画面の奥に向かっていく。
それは何を意味するのか。そのことに対する感想は、人それぞれだろうと思う。
1977年、イランの首都テヘラン。
詩集『サイの最後の詩』を出版したクルド系イラン人の詩人サヘル・ファルザンは、妻ミナと仲睦まじく暮らしていた。
そんな中、お抱え運転手であるアクバルが横恋慕し、ある日、激情にかられてミナに告白。
それを理由にアクバルは、集団暴行を受けて夫婦から離される。
1979年、イラン・イスラム革命が起こり体制が一変する。
ミナに執着するアクバルは、サヘルが反体制的な詩を書いたと事実無根の密告をした。
それにより、サヘルは国家転覆罪で禁固30年の刑に、ミナも共謀罪で禁固10年の刑に処せられる。
アクバルは、新政府の指導者的存在という立場を利用して、ミナに早期釈放を持ちかけるが、ミナは頑なにこれを拒む。
10年後、刑期を終え出所したミナは、服役中に授かった双子の子供とともに夫の釈放を待ちわびていたが、
ある日、サヘルが死亡したとの通知を得る。
打ちひしがれるミナの前に、まだ思いを引きずるアクバルがやってくる。
2009年、サヘルは30年の間、拷問にも耐え抜いて、やっと出所することができた。
しかし、彼は政府により死亡扱いにされている。
長年、心身ともに痛めつけられ、抜け殻のようになっていたサヘルだったが、最愛の妻ミナへの思いを胸に、彼女の行方を捜し始める・・・・
この映画は、クルド人詩人サデッグ・キャマンガールをモデルに描いた実在の話である。
しかし、ゴバディ監督はそれを社会劇とはせず、サヘルとミナの孤独感、喪失感を焦点にして描く。
この二人の無感情に近い沈黙の表情に現れる30年の歳月の悲しみが切ない。
と言っても、二人のそれぞれの思い、感情を喚起させる意図か、全体に会話が極端に少ない。
そして映像を主体に、時代を前後に織り交ぜながら物語を進めていく。
そのため、映像と映像のつなぎでピンと来ないというか、よくわからないところがある。
だから、もう一度見直してみた。
映画は作り手の思いと、それに対して、情報として受け取る側の処理能力が十分に追いつかない場合がある。
だから、その疑問を持って再度観てみれば、わからなかった部分が納得できる場合がある。
まさしく、この映画はそのような作品であり、観直した結果の印象は言い難いほど味わい深い。
空からたくさんの亀が逆さに降ってくるシーン。
車の中に馬が首を突っ込んでくる、その時の目のクローズアップ。
そのイメージが、原作の詩と繋がっている。
ラストで、広いひび割れた平地の遥か向こうの方にいる者は誰か、アクバルか。
そこに向かってサヘルが歩いて行く。
死んでいるはずの二人が、そのようにして画面の奥に向かっていく。
それは何を意味するのか。そのことに対する感想は、人それぞれだろうと思う。