花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

令和元年度・夏期講習会2019│大和未生流の花

2019-07-14 | アート・文化


大和未生流の夏期講習会が、奈良春日野国際フォーラム(旧名称は奈良県新公会堂)で開催された。午前の御家元の講義では、華道を理解する上で日本の伝統絵画や庭園についての見識を深める意義を提示された。障屏画や浮世絵を含む様々な日本画を西洋絵画に対比し、さらに竜安寺の石庭や日本最古の造園書『作庭記』の引用を用いて強調なさったのは日本独自の美意識である。

「檜図屏風」(狩野永徳)、「沈堕瀧図」(雪舟)を引いて論及なさったのは、(具象絵画において)人物画、風景画ともに具体的な対象を正確にトレースする「写実」をおこない、その瞬間を切り取り忠実に再現する西洋の絵画とは異なり、日本の伝統絵画は作者の内部に奔騰した「感動」の表現に重きを置くという相違である。同じく形あるものを描く具象画であっても、後者はより観念的、象徴的と言える。
 「夏秋渓流図」(鈴木其一)、「槇に秋草図屏風」(酒井抱一)では、一つの空間の中に四季の花木や景物を並べて描く画面構成法に触れられた。四季の移ろいがエピジェネティックな仕組みで日本人の感性を修飾決定しているかどうかの実証はないが、春夏秋冬の花が一度に次々と咲き並ぶ群生は不合理であっても決して違和感はない。四季の景物とともに無数の我等民草の営為が描かれた「洛中洛外図屏風 上杉本」(狩野永徳)では、すやり霞の伝統的技法を受け継ぐ「金雲」が異なる時間と空間を繋ぎ、大和未生流における「つなぎ」の概念にあたることを述べられた。加えて流派のいけばなにおいて、季節の花材であっても同じ場所、同じ時に育ち花開いたのではない草木を取り合わせて、その季節の風趣をかもす作品を生む精神もまた同様であること、全てこれらには時空間を自在に越えて俯瞰する複眼的な視点が共存している、との興味深い御指摘があった
 
午後からの御家元と副御家元、両先生御指導による実技演習は、臙脂の菊三本を用いた後人(うしろじん)の壺生けで、本年御監修の花器は金沢の大樋焼に似た飴色の釉を帯びた信楽焼であった。菊に限らず栽培種の花材は、踏みしだかれ風雨に晒された路地咲きとは異なり、曲が無いが素直であり手に余る癖もない。今回の上質の栽培菊は瑞々しい豊かな緑葉を抱いてひたすら真っ直ぐな性である。菊に向き合ううちに、直線を活かすには後人の他にはないという御言葉がすとんと胸に落ちた。「型は学ぶことが出来るが、表現は学ぶことが出来ない。」、これは両先生が講習中に繰り返しておっしゃった警句である。前者は形式知で、後者は暗黙知ということなのであろう。