花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

まつろはぬもの│「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」

2021-02-20 | アート・文化


「文学・哲学・歴史においては、世界を豊饒にし幽玄の奥行きを与えるのは、<まつろはぬもの>からの挑戦である。<まつろはぬもの>の働きは硬直し矮小化した発想を生命の躍動に向かって転換する発条の役割を果たす。<まつろはぬもの>は恐ろしい存在なのだが、それ自身眼を瞑ってはいけないし、人はそれから眼を逸らしてはならない。アンチテーゼとしての<まつろはぬもの>はいつの時代にも社会また人の心の中に生き続けなければならないものなのだろう。謡曲『卒都婆小町』の名句「心の花のまだあれば」という表現を借りるならば、「<まつろはぬもの>のまだあれば」といわねばならない。<まつろはぬもの>を「心の花」に転換させる発想が求められる。」
(「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」, p167-168)

数々の酒呑童子絵がカラー収載された本書には、絵巻、屏風絵や諸伝本の詳細な解説とこれを支える思想についての論説が展開する。<まつろはぬもの>とは反逆者、時の体制に帰順せぬものである。第四章《物語を支える思想》、1. 物語の生成-----酒呑童子の物語では、酒呑童子の物語が「<まつろはぬもの>との戦いを象徴する物語」であること、江戸初期に多く制作された古法眼系統の酒呑童子征伐の物語が「清和源氏を称する徳川氏を中心とする武家政権の正統性を語る神話」となることが指摘される。おどろおどろしい、しかし血湧き肉躍る妖怪退治譚の中に仕込まれているのは勝者の正統性である。

本書の本題から外れるが、2. 物語の享受-----酒呑童子・堀河夜討・大森彦七で示された、”何かを背負うことの持つ象徴的な意味”についての記述が興味深い。
「背負うことにおいては、背負われるものの正体は背負うものが何者であるかを示す微証であり、背負うことは背負うものの存在理由、役割、生きざまを象徴的に示すものとなっているのである。」(同, p163)
この章では、大森彦七の物語で大森彦七が背負うのは美女に化した楠木正成の怨霊であり、夏目漱石著『夢十夜』第三夜で「背中の子供によって自分が罪を背負った存在である」とわたしは覚り、『伊勢物語』芥川の段では、盗み出した女を「背負うところの恋の重荷は在原業平の存在理由と生きざま」であり、「捨て去ることのできない自らの色好みの心」であることなどが挙げられている。
 おのれが此処に背負わざるを得ないものが自らの存在意義であるという示唆は重い。それは肉付きの面ならぬ、背に負った”肉付きの甲羅”である。武術の達人、亀仙人の甲羅は容易に取り外しが可能なようだが、本来甲羅というものは不可分の肉付きである。
さて、貴殿が背負ってこられたもの、その背に今、背負っておられるものは何ですか。



参考資料:
美濃部重克, 美濃部智子著:「酒呑童子絵を読む まつろわぬものの時空」, 三弥井書店, 2009
廿四世観世左近著:観世流大成版「大江山」, 檜書店, 2017
吉井勇著:「新訳絵入 伊勢物語」, 阿蘭陀書房, 1917