読書感想195 江戸の頭 車善七
著者 塩見鮮一郎
生年 1938年
出身地 岡山県岡山市
初版出版年 1997年
初版出版社 三一書房
再版出版年 2008年
再版出版社 (株)河出書房新社 河出文庫、
☆感想☆☆☆
江戸時代の江戸のを中心に被差別民について書いた本である。職業と身分が密接に結び付いた封建社会の中で、工・農・商の身分概念から外れたものが、被差別民となっていく。「による統治」という徳川幕府の方針により、の頭領の弾左衛門が町奉行の下で関東一円と江戸の被差別民の裁判や刑の執行を行った。
は被差別民の中でも一番底辺に位置付けられた人々であり、仏教の死穢にふれる不浄な者として差別されたよりもさらに下に置かれ、弾左衛門との葛藤もすさまじい。
江戸時代、とは三ノ輪から隅田川の今戸橋まで通っていた山谷堀という運河の近くに住んでいた。今は山谷堀公園。 は新町という今戸橋の近くの囲い地の中に住み、弾左衛門の屋敷もここにあった。今は都立浅草高校になっている。一方、は山谷堀に面した遊郭、吉原の裏手に住んでいて、その頭目の車善七の屋敷も同じ所にあった。今は何も残っていない。
は馬牛の皮革加工販売と灯芯の製造販売をともに独占することが許された。特に灯芯の独占販売は巨額の富を弾左衛門にもたらし、金融業、つまり金貸しも行った。
それに対しての生業は乞食であり、生産や販売に携わることは禁じられた。乞食をすることを仏教の寄進の意味で「勧進」といい、は月に一回とか季節ごとにまとめて町家からお金を集めて生計を立てていた。そのほかに古紙を集めて山谷堀で洗い、紙屑問屋に下した。紙屑問屋はもう一度漉きなおして「落とし紙」(トイレットペーパー)として販売した。は商行為ができないので古紙から「落とし紙」にして販売する全行程を担うことはできないのだ。車善七とその配下の抱が「勧進」と「古紙」の営業を組織的に行っている。大道芸人は車善七の配下にあるが、は芸を売るのは禁じられている。はキヨメ(清掃)に関連することを受け持ち、乞胸と呼ばれた大道芸人は芸を売るという厳密な区別があった。正月にの女が町家を訪れて三味線を弾いてお祝いの鳥追い歌を歌うのは許されている。
その他、車善七には「御公儀御用」という町奉行所から下される仕事がある。幕府が倒れるまで無報酬の仕事だ。しかし「御用」の仕事を務めるというのは名誉なことでもあり、頭の地位を社会的に保証するものである。「御公儀御用」は江戸の町や川、堀などの清掃。行倒れ人の救助や片付け。牢屋人足として牢屋の清掃、汚物処理、牢死した囚人の死体処理、お白洲に向かう囚人の付き添い。そして処刑の手伝い。刑死後の死体の処理。さらに地方から江戸に逃げ込む貧民は野とか無宿人とか呼ばれるが、彼らを捕まえることが、頭車善七の仕事になる。野を抱として受け入れたりもしている。車善七の屋敷と同じ規模900坪の浅草溜めが作られる。そこは未決囚の病者の収容所であったが、無宿人も収容されている。その管理は町奉行所から直接車善七に命じられたものである。
また処刑の手伝いにはもと同数駆り出されるが、は上番、は下番で、はに指示を与え監督だけをする。手を汚すのはなのである。こうした被差別民の中での差別に苦しんだは弾左衛門の支配下から抜けようとして享保年間に町奉行所に訴えた。そのきっかけになったのは同じく弾左衛門の支配下にあった座頭市と歌舞伎役者が支配から抜け出したことである。しかしの訴えは却下され、首謀者3名は弾左衛門によって打ち首にされ、4名は永牢とされる。
そのころ、抱による放火が増え、車善七も弾左衛門も町奉行所から厳しく咎められ、一度に弾左衛門が200余名を島流しにしたりしている。無宿人ではなく抱の怒りが江戸を揺るがしたのだ。無宿人の絶望と怒りはさらに大きかっただろう。
幕末に車善七の配下のは約4000人。
明治4年に被差別民に対する解放令が出て、身分制度が廃止になった。しかし翌年には乞食廃止令が出て、は生業を失った。そして、浅草の地から雲散していった。最後の車善七も屋敷を売って名前を変えて浅草を去った。
江戸の初期にキリシタンだったやが多かったと推察できる車善七の文が紹介されている。死穢に触れる輩とみなされたやにとって、仏教からの解放としてキリスト教は救いだったはずだし、帰依した人が多かっただろう。