題名 : 長崎の鐘
著者 : 永井隆 (1908年~1951年)
脱稿 : 1946年8月
初版 : 1949年(昭和24年)
インターネット公開 : 2011年(平成23年)
公開元 : 青空文庫
あらすじ:
長崎医科大学の助教授だった著者が、1945年8月9日の原爆投下の日から1945年のクリスマスに浦上天主堂の奇跡的に焼け残った鐘が鳴らされる音を聞くまでの5か月間の体験を綴ったものである。
著者は医師であり、被爆者でもあり、原爆で母を亡くした2人の子供の父でもあり、カトリックの信仰を持つ人でもあり、日中戦争に軍医として従軍した人でもある。
その体験の中には、8月9日の朝まだ生きていた医学生たちの会話や、生き残った看護婦や医師たち、医学生の体験、また原爆を目撃した人々の体験も盛り込まれている。
爆心地に隣接した長崎医科大学も大学病院もほぼ全滅する。807名が亡くなる。わずかに残った医師と看護婦、医学生で被爆者の治療に3日間不眠不休であたる。しかし治療にあたる彼らも被爆し傷を負っている。
その後生き残った被爆者の治療のため、熱傷に効果があるという長崎の北方の三ツ山にある鉱泉、木場六枚板の湯に救護班を開設して巡回診療に当る。その期間は8月12日から10月15日に及ぶ。三ツ山には生き残った被爆者があふれ、1軒の農家には100名以上の被爆者が身を寄せているという状況だ。巡回診療では1日に平均8キロの山道を歩く。そうした中で帰省中で被爆を免れた看護婦が合流してきたり、著者自身が危篤状態に陥りながら、救護班の献身的な努力で小康状態を得たりする。
被爆の惨状と敗戦の虚脱状態の中でも自分たちの使命を忘れてはならないと戒め,診療に励む。
医師としてこの未曾有の被爆の症状を解明しようと努め、効果的な治療法を探ろうとする。放射線に弱い臓器として骨髄、リンパ腺、生殖腺を挙げ、特に骨髄損傷から異常な白血球の増加による白血病、あるいは白血球の減少などを引き起こし、被爆者の多くに白血球の異常増加が見られると指摘する。
有効な治療法として、白血球の減少に対しては自家血液刺激療法を挙げる。患者自身の血液を臀部の筋肉に注射する方法で、瀕死の被爆者が助かった。また2日酔いのような放射能酔いにはビタミンBとブドウ糖注射が効く。熱傷には鉱泉療法、六枚板鉱泉浴が効果があり、平均24日で回復した。
食事療法ではどんな動物のものでもいいから肝臓を生かあるいは軽く焼いて食べることと、新鮮な生野菜を摂取することが効果的である。好きな酒を飲ませたり、自宅療養もいいと臨床診療の結果を踏まえての勧告である。
長崎に帰ってから爆心地に蟻などの小生物が生きて活動するのを見て、残留放射能75年は大げさで戻ってきても大丈夫だという判断を下し、自らも爆心地の近くに1坪の小屋を建ててもらい2人の子供と暮らし始める。
こうした中で家族を亡くした人の苦しみに触れる。それは原子爆弾は天罰だから殺された者は悪者だということと、生き残った者は神様からの特別なお恵みを頂いているのだという噂だ。家族は殺されたうえに悪者にされたのだ。8500人が亡くなった浦上天主堂の合同慰霊祭で読み上げる弔辞の中で、著者は善い人だからこそ神が選んだのであって、生き残った者は罪を負うと述べて、死者に対する慰霊と家族への慰めとした。
本書の最後に当る部分を引用しよう。
「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと。鐘はまだ鳴っている。
感想:
ここには医療の原点が描かれている。人の命を救うこと。そのために手を尽くし知恵を絞って治療を試みる。その成果を広く共有しようと公開する。放射能についての判断は今では間違っているかもしれない。しかし未曾有の災害だし、未知の病気にまだ放射能の知識も十分にない中で立ち向かわざるを得なかったのだ。ただただ頭が下がる。
キリスト教の知識は十分にないので理解できないところもあった。ただ、医療と信仰という観点で考えると結び付くのではないだろうか。医療の現場で多くの病人が亡くなっていく。いくら最善を尽くしても眼前で人が死ぬという事実は重い。最善を尽くしたと思っても人が死ぬと悔いが残る。神に人の生死をお任せする、神の摂理に任せるという信仰が残された人、治療に携わった人にとって救いになるのではないだろうか。永井隆博士がカトリックに入信したのは医師になってからである。医師としての体験が信仰への背中を押したのではないだろうか。