読書感想328 ノモンハン1939
著者 : スチュアート・D・ゴールドマン
出身地 : アメリカ合衆国
経歴 : ジョージタウン大学で博士号、1979年から2009年まで30年にわたり米国議会図書館議会調査局で、ロシア、ユーラシア地域の政治・軍事情勢の研究に携わる。
出版年 : 2012年
邦訳出版年 : 2013年
邦訳出版社 : (株)みすず書房
訳者 : 山岡由美
☆☆感想☆☆☆
気が重い本だった。ノモンハン事件は第二次世界大戦前夜に日本とソ連がモンゴルと満州国の国境線をめぐった戦いで、日本が大敗した戦争と聞いていたからだ。しかし詳しくは知らない戦争なので、本書を手に取った。
日本では国境線を巡る局地的ないざこざのような位置づけのノモンハン事件を、本書では当時の国際情勢の中から読み解いている。スターリンが戦略的な視野の下に布石を打っていくのに対して、日本は戦略的な思考がない。関東軍(満州国在住の陸軍)は東京の陸軍参謀本部の命令を無視して勝手な下克上を繰り返している。1931年柳条湖事件をきっかけにした満州事変、1937年盧溝橋事件をきっかけにした日中戦争も下克上であり、日本政府も陸軍参謀本部も結果にひきずられて認める形をとってしまう。下克上の当事者たちは罰せられることなく、第二次世界大戦を指揮していく。上意下達が陸軍の中で徹底されていない。それに対してソ連軍はスターリンの粛清によって特別赤旗極東軍は1938年だけで師団・軍団将校の7割、軍司令部員の8割を失いながらも、スターリンの命令に絶対服従で上意下達が徹底していた。本書では次のように述べられている。
「戦争とは他の手段をもってする外交の継続にすぎない」とはクラウゼヴィッツの言であるが、ソ連の政府首脳はこのことを充分に理解していた。ノモンハン地区の軍事的問題は、はるかに広範な文脈に位置付けることで最善の解決を得られると認識していたのである。軍事行動は政治行動に従属させられ、政治との調整がはかられていた。時間軸にも細心の注意が払われ、八月の攻勢が二重の効果を生むこととなったのだ。勝利が決定的となったときでさえ、赤軍は厳しい統制下におかれたままだった。戦果に酔いしれることもできず、その機を捉えてさらなる軍事行動を行うことも、またー赤軍にしてみれば認められてしかるべきことであったろうがー国境線を越えて、組織的戦力を失った日本軍を追尾することもできなかった。ジューコフの第一軍集団は、ソ連とモンゴルの主張する国境線の内側で停止し、敗散した敵を丁重に遇して紛争を速やかに集結させた。
スターリンはナチス・ドイツのヒトラーの反ボルシェビキに強い脅
威を抱き、コミンテルンを通じて各国の共産党に民主主義政党との
統一戦線を組み、反ファシズムの戦いへの参加を命じた。スペイン内
戦では共和国軍と協力しフランコ軍と戦った。ドイツ、フランス、イ
ギリスという資本主義国家の反ソ連という連携にくさびを打ち込ん
だ。スターリンが恐れていたのはドイツと日本という東西から挟撃
されることであった。日本が中国との戦争に深入りすればするほど、
ソ連への軍事侵攻の余力を失うので、蒋介石が日本と停戦協定を結
ぶことがないように、国共合作(対日戦のために国民党と中国共産党
は協力する)を応援し、大量の軍事援助を蒋介石に与えた。ヨーロッ
パでは統一戦線戦術、中国では国共合作をソ連を守る盾としたのだ。
日本の陸軍では中国での戦争が長引く原因の一つとしてソ連の中国
への軍事支援があり、ソ連を叩く必要があるという議論があった。ノ
モンハン事件は5月、7月、8月と3回にわたって戦われた。航空機、
戦車、火力のすべてにおいてソ連軍が質量ともに上回った。関東軍は
壊滅的な敗北を喫した。いろいろ原因はあるだろうが、赤軍の戦闘力
の軽視、情報の不足、軽視がある。8月のソ連軍による大攻勢は、独
ソ不可侵条約が締結される前日に開始された。東西2面から挟撃さ
れる恐れがなくなったソ連軍が日本軍を集中して叩いたのだ。独ソ
戦が始まり、ドイツが日本にソ連を叩け、北進せよと迫ったが、結局
南進論に決まり、真珠湾攻撃に至った。ノモンハンでの敗北が判断を
曇らせた原因でもある。ジューコフはモスクワを守り切っていた。北
進していたら、ソ連は敗北したというのが著者の見立てだ。
ノモンハンでデビューしたジューコフは300門に上る対戦車砲や
速射砲、200門を超える重砲を配置して集中した火力攻撃を加え、
歩兵部隊や装甲部隊に砲兵中隊をつけて支援させた。モスクワ防衛
戦でも同じ戦術を繰り返している。このジューコフの戦術、火力の集
中攻撃はソ連の伝統的な戦術となったようだ。現在のウクライナでも使われ
ているのだろう。