風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

釘をぬく夏

2024年08月13日 | 「2024 風のファミリー」

 

学生の頃の夏休み、九州までの帰省の旅費を稼ぐために、解体木材のクギ抜きのアルバイトをしたことがある。炎天下で一日中、バールやペンチを使ってひたすらクギを抜いていく作業だ。いま考えると、よくもあんなしんどい仕事がやれたと思う。
毎日、早稲田から荒川行きの都電に乗って、下町の小さな土建屋に通った。場所も忘れてしまったが、近くを運河が流れていた。朝行くと、廃材置き場にクギだらけの木材が山積みされている。作業をするのは、私ひとりきりだ。

土建屋といっても、夫婦でやっているような零細なところで、夫は早朝から現場に出ているので会ったこともない。若い奥さんもほとんど顔を出さないので、まったくの孤独な作業だった。毎朝積み上げられた廃材を前に、ただ黙々とクギを抜くことに没頭するしかなかった。
始めのうちは、とても続けられる作業ではないと思った。ひたすらクギを抜く、ただそれだけの単純な作業だった。毎日が無駄な作業をしているような気がした。クギを打たれた木材の、クギを抜くことによって、その木材は再利用されるのかもしれなかった。だが自分がやってる仕事がよくみえなかった。それに炎天下の暑さにも耐えなければならなかった。とにかく、アルバイトの仕事とはこんなものだと割り切ってやるしかなかった。

クギを抜く、ただそれだけの作業だったが、やっているうちにクギにはそれぞれの個性があることがわかった。木の個性とクギの個性が、ときにはむりやり合体させられていることがあった。そんなクギを抜くときは、こちらも無理やりな力が要求された。そして、そんなクギを抜くと、なぜかほっとして気分が良かった。抜かれたクギと木も、本来の姿に戻って安堵しているようにみえた。それは単純な作業をするなかでの気休めだったかもしれない。でも、そんな気休めに励まされて熱中できたからか、なんとか続けることができた。

週に1日だけ、臨時の作業員が5〜6人招集された。近所のおばちゃん達のようだった。彼女らはおしゃべりばかりしていて、作業はあまり進まなかった。私はクギ抜きの要領もつかんでいたので、私の作業はおばちゃんたちの集団には負けていなかった。クギが抜かれて積み上げられた廃材を見れば、その成果は歴然だった。
そんなことがあったからか、その週の報酬は少しだけ増えていた。誰にも見られていないような仕事だったけど、土建屋の奥さんは見てくれていたのだろう。

ただクギを抜く。それは、ただ雑草を抜く、ただ塵を拾うといった、それだけの単純で無駄なような作業にも思われた。けれども苦役の合間には、ほんの少しだけの喜びもあった。苦しみと喜びは容易に天秤にかけられるものではなかった。そんな作業が1か月ほど続いたと思う。最後には、水ばかり飲んでいるうちに夏バテになってしまったけれど。
一日の作業を終えて、淀んだ大気の中を停留所まで歩いて帰る。小さな運河の橋を渡るとき、強い潮の匂いに包まれた。地理もよくわからなかったが、だだっ広い東京にもどこかに海があることが嬉しかった。そのほっとする思いは、クギを抜いた瞬間の小さな快感にも似ていた。




「2024 風のファミリー」




 


遠くの花火、近くの花火

2024年08月07日 | 「2024 風のファミリー」

 

幼稚園のお泊り保育の勢いで、その翌日は、孫のいよちゃんがわが家にお泊りすることになった。すっかり自信ありげな顔つきになっている。夕方、いよちゃんのお気に入りの近所の駄菓子屋へ連れていったが、あいにく店は閉まっていた。バス通りのコンビニまで歩けるかと聞くと大丈夫と答えたので、手をつないで坂道をのぼってコンビニまで行く。
以前は買物かごの中に、次々とお菓子を入れていくので戸惑ったものだが、いつの間にか遠慮深くなって、かごの中には好物のグミを1袋入れただけ。なんでも欲しいものを選んだらいいよと言うと、ラムネ菓子を1個加えただけで、もういいと言う。さらに促すと、ヤキソバ風と表示されたスナック菓子を手に取った。

場所を変えて、いよちゃんの好きなアイスクリームのボックスへ誘導した。小さな手が箱入りのチョコアイスを選んだので、そこへ私がカキ氷を3個ほうり込んだ。レジに行ったら、目の前にきれいな花火セットが並んでいる。今夜は花火だということになって、いよちゃんが選んだのは、ハムスターのキャラクターで包装された花火の詰め合わせだった。その袋を眺めながらの帰り道、たまごっちのファミリーなども教えてもらったが、多すぎて私はどれも憶えられなかった。

まだ、いよちゃんが生まれる前、マンションの9階に住んでいた頃は、居ながらにして大阪中の花火が見られたものだった。
7月25日の天神祭りの花火や淀川沿いのあちこちで上がる花火。テレビ中継を観ながら、花火が上がるとベランダにとび出して確認する。さらには大阪湾をはさんで、海の向こうの神戸や淡路島の花火など、遠くの暗闇の一角に、小さな花が開くように光の玉がはじける。いくつか花火が上がったあとに、だいぶ遅れて音だけが遠雷のようにやってくる。
8月1日はPLの花火。丘陵の向こうで10万発の花火が炸裂する。仕掛花火は丘陵に遮られて見えなかったが、真昼のように燃え上がる夜空と、地鳴りとなって響いてくる無数の炸裂音で、仕掛けの豪華さが想像できた。

いまは地べたの近くに住んでいるので、もう遠い花火を見ることはできない。今夜はいよちゃんと妻と3人で、近くの砂場で久しぶりのささやかな花火をした。いよちゃんがビビるので、音の出る花火や飛翔するロケット花火、足元を走り回るねずみ花火はしない。一本ずつマッチで火をつけて、さまざまな色彩が噴き出す花火を静かに楽しんだ。
はじめは半分だけのつもりが、興に乗ったいよちゃんが次々に花火を取り出すので、私もせっせとマッチを擦りつづけた。花火の明りでよく見ると、マッチ箱には昔に入った懐かしい喫茶店のネームが入っていた。

夜中、お泊りさんは半分寝ぼけて暑い暑いと騒ぐ。パジャマをはだけてお腹を出す。さかんに転げまわって襖を蹴る。久しぶりの賑やかな夜になった。眠ってしまえば、まだ幼い子どものままだ。
花火のあとは、真夏の夜の夢までも焦がしてしまう、大阪の暑い熱帯夜だった。




「2024 風のファミリー」




 


いつか、朝顔市の頃

2024年07月30日 | 「2024 風のファミリー」

 

朝顔は朝ごとに新しい花をひらく。日々が新しいということを花に教えられる。
朝顔はもともと中国大陸から渡ってきたものらしい。その時の名前は「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。当時の中国では朝顔の種は高価な薬で、対価として牛一頭を牽いてお礼をするほどだったという。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきていたりする。
牛から朝顔などというと、とても連想しにくいが、朝顔が好まれた江戸時代の日本では、いつしか朝顔姫とも呼ばれるようになったらしい。七夕の牽牛と織姫の連想から、日本人が好む優しい夢のある名前に変えられていったのだろう。

浅草の古い裏通りで、江戸時代と朝顔を連想させるような、そんな風景にいちどだけ出会ったことがある。浅草は古い時代の雰囲気のようなものがまだ残っている街だった。
飯田橋の小さな出版社で働いていた頃、浅草にある印刷所によく通った。薄暗いところで、無口な若い印刷工たちが活字を拾っていた。見ていると、気が遠くなるような細かい作業だったけれど、そうやって鉛の細い棒を並べていくことで、言葉ができ文章が出来上がっていくのだった。言葉というものは鉛のように重かったのだ。

印刷所の社長は山登りが好きで、「山の音」という喫茶店によく連れていかれた。いつも山の話ばかりで、私もいつのまにか、八ヶ岳や白山などの3千メートル級の山にも登るようになっていった。
私自身は山登りが好きだったかどうかはわからない。山に登りたくなるときには、こころに空洞があったように思う。空隙を埋められない、なにかやり足りないものがあるような気がして、山登りの苦役で体を虐めたくなるようだった。

いつもの喫茶店で谷川岳の話を聞いたあとで、私は浅草の静かな住宅街を歩いていた。ぼちぼち山で汗をかきたいという、さみしい欲求が溜まっていた。
とつぜん賑やかなところに出た。道路いっぱいにアサガオの鉢が並んでいた。それが浅草の朝顔市だというのを初めて知った。
私はまだ花というものに、さほど関心がなかったけれど、花の周りで賑わっている人々の様子に、なぜか涙が出るほどに感動していた。花の周りで人々が同じ熱い視線で触れ合っている、人の温もりのある光景に胸が熱くなったのだった。

忙しい仕事を続けながらも、山への思いは次第に膨らんでいき、谷川岳はすこしずつ近くなっていった。
しかし、ちょうどその頃、山よりもだいじな朝顔姫との出会いなどがあり、私のルートは急変したのだった。
その後、私は谷川岳に登ることはなかった。ルートをあれこれ探った、赤鉛筆で書き汚した5万分の1の地図だけが、いまも残されたままになっている。




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アサガオの朝がある

2024年07月25日 | 「2024 風のファミリー」

 

きょうも朝があった、と思う。変な感覚だが、朝というものを改めて知る。そういう朝を、アサガオの花に気付かされる。のんべんだらりではなく、毎朝あたらしい花が咲く。あたらしい朝がある。これは素晴らしいことなのかもしれない。
いまは昼も夜も境いめもなく暑い。一日のうちに、はっきりとした区切りがない。朝らしい朝がなく、昼間らしい昼間がなく、夜らしい夜もなく、夢らしい夢も、見ているか見ていないかもわからない。ひたすら暑さに耐え、体も心も伸びきったようになっている。だからアサガオだけが、別の朝を生きているようにみえる。

アサガオの花には昼と夜はない。日中すぐに萎れてしまう。それでも朝があるだけいいと思ってしまう。
一日の終わり、夏バテ気味の私の視界の中で、萎れた花のかげから立ち上がってくる、アサガオの尖った蕾が新鮮なエンピツに見えることがある。エンピツの先が少しずつ伸びて、明日の朝を待ちかまえている。きょうの朝が終わるとすぐに、あしたの朝の準備をしている。アサガオのエンピツは研がれている。
私もエンピツを手にすることは多い。エンピツは4Bか5Bの、芯が太くて軟らかいものを使っている。とくに力を入れなくても書ける、紙の上に素直にイメージを滑らせていける、その軟らかさを好んでいる。だが今は、どんな軟らかいエンピツも落書きくらいしかできない。

筆箱の中の、エンピツの数を競い合った頃があった。ちびたエンピツのようなチンポの長さを比べあった頃のことだ。テストのマルやペケの数を競ったり、力こぶの大きさを比べたり、背丈や体重で勝負したり、ポケットの中のガラクタを自慢したりして、いろんなものを競い合っていた。競うことが遊びでもあった。小さな勝利の先には、小さな喜びと満足があった。
ときには、エンピツをサイコロのように転がした。六角形のエンピツの六つの面に、スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライと記して、単純な想いを託した。どちらが出ても、なかなか願いどおりには転ばないものだった。スキ、キライの先には何もなかった。何も無いから、ただいたずらにエンピツを転がしていたのだろう。

アサガオは明日の朝を迎えるため、毎日あたらしい蕾のエンピツを用意する。寝苦しい熱帯夜に、ひそかに幾本ものエンピツを転がしているのは誰か。そして新しい朝には、アサガオのエンピツは誰よりも早く、新しい花を描いてみせるだろう。




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赤土の窓

2024年07月17日 | 「2024 風のファミリー」

 

このところ疲れているのかもしれない。しんどい夢をよく見る。
どこか知らない街にいて、家に帰りたいのだが道も駅も分からない。路地のような処をさんざん迷った末に、目の前に突然赤土の壁が現れる。そんな夢を見たことがある。壁の一部分が崩れている。その崩れ方に見覚えがあって懐かしく感じた。目が覚めてからも夢の感覚が残りつづけて、その後しばらく寝付けなかった。

だいぶ以前に書いた「赤土の窓から おじいさんの声がする」という、詩のような語句を思い出した。そして、夢に出てきた赤土の壁が、この赤土の窓と関わりがありそうに思えた。
赤土の窓なんて変な窓だが、詩の言葉だから何でもありで、読んだひとが勝手にイメージを広げてくれればいいし、それを期待しての表現でもあった。
しかし改めて、その光景を散文で表現しようとすると、すこしばかり言葉の説明がいるかもしれない。

祖父が住んでいた家だから、ずいぶん古い。私の記憶もかなり曖昧で、赤土の窓というのが記憶のイメージに一番近い。だが記憶をさらに鮮明にしようとすると、そのような窓があったのかどうか、それが窓だったのか、単に土壁が崩れて穴があいたままになっていたのか判然としない。ただひとつはっきりとしていることは、その窓だか壁穴だかが路地に面していて、私ら子どもたちの目線よりもすこし高いところにあったので、その窓めがけて小石を投げ入れては悪戯していたことだ。

そこには祖父と祖母の部屋があった。土間を挟んで家族の部屋からは独立していた。その部屋の右手は土間続きで炊事場になっており、かまどや流しや他にもごちゃごちゃと何かがあったが、薄暗くてよく分からなかった。
部屋の反対側は農具などが置かれた納戸のような所で、その一角に石臼があり、祖母が足踏みの杵を踏みながらよく玄米を撞いていた。実際にいまも耳に残っているのは、祖母の声ではなく、玄米を撞く杵の音だったかもしれない。

祖父は言葉が少ない人だったから、声の記憶は少ない。だから赤土の窓から、子供たちの悪戯を叱る声がしたかどうかも憶えていない。もしかしたら、祖父の叱る声を期待して、子供たちは小石を投げ入れたのかもしれない。
ぶどうの栽培をしていたので、ぶどうを梱包して市場に出荷する木箱を作るため、祖父は黙々と釘打ち作業をしていることが多かった。祖父の周りではいつも杉の薄板の匂いがし、土の匂いがし、選別して捨てられた古いぶどうの饐えた匂いがしていた。それらは祖父の匂いであり、家の匂いでもあった。

その後、跡を継いだ叔父が家を改築したので赤土の窓は無くなった。新しい家には、すでに祖父もこの世を去って居なかった。きれいになり明るくなった家は、もはや土の匂いはしないし木箱の匂いもしなくなった。暗がりもないし石臼もなく、薪で焚く風呂もなくなった。
ぼくらも悪戯の年齢をとうに過ぎて、その家からも次第に足が遠のいていった。
夢は古い記憶を唐突に掘り出してくるが、記憶を綴るには散文はリアルすぎる、と。記憶は赤土の窓のような形でよみがえる。その記憶はポエムの形をしている。ときどき詩のようなものを書きたくなるのは、詩というものが言葉の悪戯だからかもしれない。小石のような言葉を投げてみたい衝動にかられる。そして、そのとき私の目線の先には、あの赤土の窓があったりする。




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