

東北の旅(6)ああ松島や
すべての川は海に繋がっている。やっと東北の海にたどり着く。
ああ、これが松島かと灰色の海に浮かぶ島々を眺める。
曇天のせいか、さほど美しい景色とも思えない。期待のほうが大きすぎたのかもしれない。島々も海もピントが合っていない感じだ。そんなはずはない、という声がどこからか聞こえてくるような気がする。
たぶん芭蕉さんの声にちがいない。その声にすこしずつ彩色されるように、ひとつひとつの島が浮かび上がってくる。
しばし芭蕉さんの声をきく。
「松嶋(まつしま)は扶桑(ふそう)第一の好風(こうふう)にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥じず。東南より海を入れて、江(え)の中三里、浙江(せっこう)の潮をたたふ。嶋々の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重(ふたえ)にかさなり、三重(みえ)に畳みて、左にわかれ右につらなる。負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。」(『奥の細道』)と。
「扶桑第一の好風」とは、日本でいちばん景色のすばらしいところ、といった意味であろう。その言葉から感嘆する声が聞こえてくる。
海は美しい。
だが、あの震災以後、ぼくは海を素直な気持ちで見られなくなった。静かな海が突然はげしく泡だち、高く盛り上がって押し寄せてくるかもしれない。それは予期できない。想像するだけでも海面が波だちはじめる。
そして近くに高い山があると、すこし安心する。「津波てんでんこ」という言葉を知ったから、いざとなったら逃げるしかないのだ。あの3月11日の出来事から学んだことは大きい。
遊覧船の船長は、右手で操舵輪を操作しながら左手でマイクを持って、島々を案内するかたわら震災当時のことを語る。
松島は260あまりの島々があるという。それらの島々に守られて震災の被害は奇跡的に少なかった。海岸部にはいつものように大勢の観光客がいたらしい。地震と同時に観光船は桟橋に向かって戻り、海岸を散策していた観光客ともども、瑞巌寺の裏山へと駆けのぼったという。
津波が来る前に避難が完了していたので、人的被害はほとんどなかったという。
松島の島々はただ美しいだけでなく、自らが防波堤になって人々を守ったのだった。
松島は観光地としての復活も早かったという。
瑞巌寺は震災の1か月後には拝観を再開し、観光船は1か月半後には運行を始めた。ゴールデンウィーク頃には観光地として仮復旧し、夏休み頃には、松島には津波が来なかったのではないか、と錯覚させるほどに復興していたという。
たぶん松島は特別だったのだろう。地形も海の深さも独特のものがあるのだろう。津波の力を高めてしまう三陸のリアス式の海岸線とちがって、津波の力を鎮めてしまうのが松島の島々だったのだ。
とにかく島だらけだ。そして松島の海は浅いらしい。遊覧船は決まった航路を進まないと座礁するという。
「嶋々の数をつくして、そばだつものは天を指さし、ふすものは波にはらばう」。たぶん幾百年たっても、島の形は変わってはいないのだろう。
大小さまざまな島が、それぞれなにか生き物の形を真似て浮かんでいるように見える。島と島は繋がっているようにもみえるし、それぞれが単独の存在で孤独のようにもみえる。にぎやかでいて淋しい。
震災のあと、音信が途絶えてしまった仙台のmakiさん、いまどこでどうしているのだろうかと、ふと思った。
「わたしの故郷の半分も、津波で流されてしまいましたが、目をつぶれば小さい頃の思い出が浮かんで来ます。故郷は消える事はないですね」。
それが最後の音信だった。
ああ、松島……。松島も消えることはなかったけれど。
