これが最後、これが最後と、いつまでも最後がつづいていた朝顔だが、いよいよ最後の一輪になった。
ぼくの勝手で、咲きつづけるかぎり水をやり、新しい花が咲くのを待っていたが、朝顔にとっては辛いことだったかもしれない。
真夏に咲いていた大きな花が朝顔姫だったとしたら、きょう咲いた花は、すでに幼児がえりした老婆かもしれない。小さくなってすこし萎んでいる。
花も老いた姿はあまり晒したくなかったかもしれない。そんなことをふと思った。
花の一生は短い。人の一生はすこし長い。
ぼくには二人の祖母が居た。九州と大阪に居たが、ふたりともすっかりお婆さんだったから、長生きしたほうだろう。
九州の祖母は、手の甲にピンポン玉くらいのコブがあった。茶の間にテーブルくらいの大きな木の火鉢があり、そのそばでいつもキセルで煙草を吸っていた。ときには紙のこよりをキセルの筒に通したりする。すると黒くてどろどろになったものが筒の反対側から出てくる。その様子がおもしろくて、そばでじっと見ているものだった。
この祖母は、ぼくが小学生の時に死んだ。
祖母の家の土間は玄関から裏の庭まで続いていたので、子どもたちには道路の続きのようなもので、いつも自由に駆け抜けて遊んでいた。
足音だけでぼくのことが分かったのか、あるとき、奥の間で寝ていた祖母が、ぼくの名前を呼ぶ声が聞こえた。そのとき祖母はいくぶん耄碌し、すでに寝たきりになっていたのだ。
ぼくは祖母に請われるまま寝返りをうたせてやった。柔らかいのか硬いのかよくわからない体だった。祖母の体に触れて何かをしてやったのは、それが最初で最後だったかもしれない。それからまもなく祖母は死んだ。
もうひとりの、大阪の祖母は名家の出だったが、学問もなく九州がどこにあるのかも知らなかった。物事すべてにあまり頓着しない人で、知り合いであろうが知らない他人であろうが、誰にでも気軽に話しかけるのだが、会話の内容も話しぶりも、子どものおしゃべりのように純朴だった。
高校生だった夏休みに、ぼくはひと月くらい祖母の家で過ごしていたが、朝夕は茶がゆを食べる習慣のある土地柄で、家族のみんなはジャコと古漬けの漬物の簡単な食事だったが、ぼくにだけ祖母が卵焼きを焼いてくれるのだった。
いちど新世界という歓楽街に連れていってもらったが、食堂で店員に「おぶうをくれはらんか」と言って、祖母がお茶を乞うたのがなぜか恥ずかしかった。おぶうという言葉が幼児語のように聞こえたからだろうか。
夏休みの終わりに九州に帰るとき、祖母は関西線の駅まで送ってくれた。駅は長い下り坂を下りきったところにあった。だから帰りはまた、祖母は長い坂道を上って帰らなければならなかったのだ。そんなことを、今頃になって想像して憂慮している。
改札口で別れるとき祖母は慌ただしく、ぼくのシャツの胸ポケットに何かを押し込んだ。おカネのようだったが、ぼくはそのことをすっかり忘れてしまい、夜行列車の中で気がついたときには、ポケットは空っぽになっていた。どこかで失くしてしまったようだった。
それが、大阪の祖母との最後だった。
ぼくが東京であくせくしている間に、祖母は死んだ。
朝顔の花から、久しぶりに祖母のことを思い出した。取るに足りないような思い出しかないが、些細なことなのでそのうち忘れてしまうかもしれない。そう思うと、すっかり忘れてしまう前に書き記しておきたくなった。
日ごとに小さくなっていった朝顔の花に、遠ざかっていく記憶の愛おしさのようなものを覚えたのかもしれない。
小さな朝顔の花も、よく見ると愛らしい。花の終わりは始まりでもあるのかもしれない。老いていくというよりも幼くなった感じもする。
こうして、ひとつの花の季節が終わる。