風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

散りゆく落葉は美しいか

2019年11月20日 | 「新エッセイ集2019」
ある人の葬儀の礼状に、一枚の小さな栞が添えられてあった。
清め塩ではなくて、「清め塩枝折り(しおり)」というものだった。それには次のような文章が記されていた。
「仏教の教えでは、生と死は紙の裏と表のような、はがせない一つのものです。愛するものとも必ず別れがある。この真実を自己のこととして受けとめ、生命の大切さ尊さを見つめていく事が教えです。従って死を穢れと考えないので、塩で清めることはありません」と。

生と死は、紙の裏と表のようなものだという。
どちらが表でどちらが裏なのか、ぼくのような俗人の頭では、つねに表にあるのは生であって、死は、ときに紙が風にあおられて裏返るようにして、とつぜん現れるもの。そのように考えてしまう。
だが、たまたま死に直面したとき、ひとが死ぬとはどういうことなのか、姿を消してしまったものはどこへ行ってしまうのか、などと答えの見つからない自問の道に迷い込んでしまう。

そのようなときには生が裏返り、死が表になることもあるようだ。
秋は落ち葉の季節だ。葉っぱにも、よく見ると表と裏があるのだった。
秋の葉っぱは枯葉となって、表になったり裏になったりしながら落ちていく。
枝を離れた葉っぱの、めくるめく一瞬の生死の姿であるかもしれない。それは葉っぱの、生でもあるし死でもあるかのようにみえる。
木の葉が、風に舞い散る秋という季節は、中空で生と死が慌ただしく交錯する、そんなときなのかもしれない。
きょうは、舞い散る葉っぱが、無数の栞にも見えたりするのだった。




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