風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

彷徨いの果ては

2024年10月14日 | 「2024 風のファミリー」

 

近くの自然公園で、中年の男が野宿をしていたことがある。
男は大きな犬を連れていた。犬には首輪もリードもついていた。かなり長い期間だったと記憶する。夜はどこで寝ていたか、雨の日はどうしていたかなどはわからない。ただ昼間はいつも公園の草むらで犬とぼんやり過ごしていた。男はこの公園にすっかり居ついた風だった。
その間に犬はひとまわり大きくなり、毛並みも色艶もよくなったようにみえた。犬にはこの生活が合っているのかもしれなかった。それに比べて男の方は、色が浅黒くなって服装も薄汚れ、体も痩せて小さくなったみたいだった。

朝夕、男は犬をつれて公園内を散歩する。犬が嬉々として男を引っ張っている様子は、この公園に住みつく前にあったであろう、ごく平穏な日常生活がそのまま続いているようにみえた。男には家族も家もあり、そんな家をたったいま出てきた人が犬を散歩させている。そんな風にみえた。
すれ違うとき、男はなにげなく私の視線を避けた。私たちは公園でしばしば会うから、顔はお互いに見知っている。男の意識して避ける気配に私の方もよけいな意識をしてしまう。すれ違うとき犬に何か話しかけている男のしぐさも、その場をつくろう意識的な行動に思えてしまう。私は男の生活に干渉しようなどという考えはなかったが、無視もできなかった。

公園のなだらかな斜面を下ったところには、かなり大きな池がある。春から夏にかけては、亀や外来魚のブラックバスなどが水面近くを泳ぎ回っている。やがて秋が深くなると亀は冬眠し、魚は水底に姿を沈めてしまう。
冬のあいだは、鴨や鵜などの水鳥で賑やかになる。やがて春になると遊歩道の桜が満開になり、桜の花が散ると周りの雑木がつぎつぎに白い花をつける。
このような公園の四季を、男と犬がひとり占めしているように見えることがあった。ベンチがあり遊具があり、砂場があるように、男と犬がいつも公園のどこかを占めていた。

その頃、私は体調をくずして、心療内科からもらった安定剤と睡眠薬を服用していた。無気力になったり不安になったりした。いくぶんかは薬のせいもあったかもしれないが、仕事もできなくなり、収入もなくなって新しい仕事を探さなければならなくなった。
その後の仕事は長続きしなかった。仕方なく、わずかな年金と貯金で暮らす生活に切り替えることにした。車を手放し家財道具も整理して、家賃の安い公営住宅に移った。できるだけ生活の規模を小さくしなければならなかった。

ホームレスの一歩手前だった。車を手放したから、どこへ行くにも歩かなければならない。駅までの20分の道のりはずっと上り坂で、スーパーへ買い物に行くのもリュックを背負ってゆく。まるで山登りだ。歩けない老人になったら、姥捨山に捨てられたようなものかもしれないなどと、悲観的なことばかり想像した。
妻はこのような生活は不本意らしく、ときどき不満が爆発してしまう。私は自分が力不足だった結果だから、どんなことも甘受しなければならないと思った。

正直なところ、私はこのような生活でも満足だった。パソコンと書物に向き合う、ほとんど引きこもりの生活である。けれども、やっとこの自由な環境を確保できたというのが実感だった。
長いブランクののちに、若い頃に夢みた森にふたたび分け入ることができそうな期待。あいかわらず道も不確かな茫漠とした森であるが、いまは思うがままに森の中を歩いていけそうだという、それだけで満足なのだった。

公園の男が連れていた犬は、よその犬や人が近づくと激しく吠えた。この犬は家を守っているつもりなのかもしれなかった。公園の雑草の中には、私には見えないが犬とその主人の家があるか、あるいは家よりももっと大切なものがあるのかもしれなかった。それほど男と犬は公園にすっかり居ついていた。
だが、わが家の生活がそれなりに落ちついた頃、公園の男と犬は居なくなった。
その日から公園の風景も変わったように思えた。私の散歩はずっと続いたが、その公園でも私が落ち着ける場所は、まだ見つかっていなかった。




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