風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

夏が始まり夏が終わる家

2024年09月12日 | 「2024 風のファミリー」

 

その小さな駅に降り立った時から、私の夏は始まり、再びその駅を発つとき、私の夏は終わるのだった。
汽車が大和川の鉄橋を渡ると、荷物を網棚から下ろして、私は降車デッキに移る。レールを刻む音が、新しい夏が近づいてくる足音に聞こえて、私の胸の動悸が早くなっていく。
奈良県との県境にちかく、大阪の東のはずれに関西線の小さな駅はあった。乗降客はわずかしかいない。駅前には小さな雑貨屋が一軒だけあったが、あとは民家もほとんどなく、ひたすら急な坂をのぼる一本道があるのみだった。

登りきったところに集落があった。そこは父が生まれて育ったところであり、叔父や叔母や年寄りが暮らしているところだった。
庭一面をブドウ棚が覆っており、庭の隅っこに井戸と柿の木があった。
その家はまた、夏休みになると従兄弟たちが集まるところでもあった。ノボルやミヨコがいた、カツヒコやマサヒコがいた、トシオやテルコがいた、サヨコやエツコがいた。
私たちは庭に面した縁側で、収穫されたばかりのブドウを、タネを庭に吐き出しながら、舌が痛くなるまで食べた。

午後になると、大きな麦わら帽をかぶり首にタオルを巻いて出かける。雑草の茂った野良道を下りていくと大和川があった。そのあたりは流れが淀んでいて、土地の人はそこをワンダと呼んでいた。
半日は泳いだり釣りをしたりした。大きなナマズやタイワンドジョウが釣れた。叔父は網を持って川底深くまで潜り、巨大なウナギを捕らえてくることもあった。その頃は川の水も澄んでいたので、道の上から鯉が泳いでいるのも見えた。そんな鯉を追いかけていき、網を打って掬い上げることもあった。

夏は、毎日おなじようなことの繰り返しだった。いとこ達は昼は川遊び、夜はざこ寝で騒ぐだけの毎日。
叔父は早朝からブドウ山に登り、木箱に何杯ものブドウを、天秤棒で前後に担いで戻ってくる。ブドウ山まではかなりの距離があった。石組みだけが顕わになった古墳跡もあった。古代からそのあたりには人の暮らしがあったのだろう。
午前中は、収穫したブドウを特殊なハサミを使ってサビ取りという作業をし、箱詰めをして集荷場に出す。その出荷用の木箱を釘打ちするのは、無口な祖父の仕事だった。納屋からは祖父の声はしなくても、釘を打つ音だけは終日していた。

その家の中心にいたのは祖母だったのではなかろうか。
祖母は、大阪の外へ出たことはなかったと思う。私の住んでいる九州がどこにあるのか、いくら説明しても理解できなかった。どこか広い海の向こうにあると思っているようだった。彼女は名家の出だったが、文字の読み書きもできたかどうかわからない。
それでも本人は、自分が知っているだけの、小さな世界の中心で、また家族の真ん中で賑やかに生きていた。毎日、足ぶみの臼で玄米をつき、朝夕は大きな木のへらを操って茶がゆを炊く。ときには鯰や鯉をさばき、私のためだけに特別に卵焼きもしてくれた。

その祖母が、いちど新世界という歓楽街に連れていってくれたことがある。そのとき入った食堂で、店員に「おぶうをくれはらんか」と言って、お茶を乞うたのが何故か恥ずかしかった。おぶうという言葉が幼児語のように聞こえたからだ。
あとで分かったのだが、お茶のことをおぶうという、その言葉は大阪ではよく使われる日常語でもあったのだ。日常生活の外に出ても、祖母にとってのお茶はおぶうであり、おぶう以外のお茶などなかったんだと思う。

長いようで短かかった夏の終り、祖母が名残りを惜しんで駅まで送ってくれた。別れ際に改札口で、私のシャツの胸ポケットにそそくさと何かを押し込んだ。その慌ただしい仕草が、別れを躊躇っている私には、淋しさを吹っ切ろうとする、祖母特有の励ましのように感じられた。私はホームに押し出され、夏の外に押し出されたのだ。
その時の、その駅での別れが、祖母との永遠の別れになった。そしてそれは、夏の家との永い別離でもあった。




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