風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

井戸の底には光る水があった

2020年11月12日 | 「新エッセイ集2020」

 

日が暮れるのがすっかり早くなったが、まだまだ秋の名残りか、夕空が一瞬だけ赤く染まるのが美しい。
秋の日はつるべ落とし、という古い言葉もある。
つるべとは釣瓶のことであり、井戸から水を汲み上げるものだったが、井戸そのものが見かけられなくなった現代では、釣瓶という言葉も死語になりつつあるかもしれない。

大阪の祖父の、古い家の庭にも井戸があった。
暗い井戸の底をのぞくと、深いところで水が銀色に光って見えた。そこへ釣瓶の桶を下ろしていく。光の水をかき回すように桶をあやつって水中に沈める。重くなった桶を手繰るように持ち上げると、闇の底で光っていた水は、ただの澄みきった水に変わっているのだった。
ときには水桶の中に落葉が浮いていることもあり、葉っぱは水の光を吸ったように色づいて光っていた。

祖父は無口な人だったから、あまり細かい話をしたことはない。祖父と孫と無口な者どうしでは、なおさら話は進まないのだった。
それでも、たまに祖父の家を訪ねることがあると、祖父はまるでぼくの影のように、ぼくの側につきまとっていることが多かった。
なにか話をしようと思うのだが、どんな話も話す前にすでに伝わっているようで、言葉にならないものがいっぱいあった。それを整理して言葉にすることが、若かったぼくにはできないのだった。

秋の夕焼け鎌をとげ
そんな言葉も、祖父が発した数少ない言葉のひとつだったかもしれない。
祖父は百姓だったから、夕空が赤く染まるのを見て翌日の稲刈りの準備をしたのだろう。
井戸もなくなり田んぼもなくなって、いまでは祖父の家ともすっかり疎遠になってしまった。けれども離れているからこそ、夕やけのように遠くで美しく輝いてみえるものがある。

 

 

 

 

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