知足

自然と共に素敵に生きたい

内モンゴル砂漠緑化

2008年05月02日 | 木を植える

 FoE Japan主催の『内モンゴル砂漠緑化ツアー』に行ってきました。

 中国に緑化活動に行くのはこれで2回目になります。前回は、重慶市(中国内陸部 長江沿い)で緑化活動を行ったのですが、重慶では過度な農地化により丸裸になった山に果樹などの植林を行いました。ですので、砂漠での植林は今回が初めての経験でした。

 今年の3月頭に北海道のキロロスキー場にバックカントリースキーに行った際、オフピステを滑るのに雪崩の危険がないかどうかを雪の層をみて判断するのですが、真っ白の雪の断面に黄色い断層があるのを発見し、中国内陸部で発生した黄砂がなんと北海道まで飛来してきていることに強い衝撃を受けました。
 以前から砂漠緑化活動には興味があったのですが、この雪の中の黄色い断層を見て、「これは何とかしないとまずい」という想いが強くなり、今回参加することにしました。

 FoEが活動している地域は、中華人民共和国で砂漠化が進む地域 内モンゴル自治区のウルスンやカンチカといった町周辺の村(ダチンノール村、ウリゴンボトグ村など)です。

 砂漠化の現状については、FoEのHome Page(http://www.foejapan.org/desert/index.html)が詳しいですので参照ください。

 4/27(日) GWで混雑する成田を飛び立ち 中国 瀋陽空港へ。オリンピックの直前で建設ラッシュに沸く瀋陽から観光バスでウルスンへ向かいました。

 初日は、移動のみで明日からの植林に期待を膨らませつつ、砂漠化が進むウルスンにある宿舎に泊りました。ウルスンは自給自足的な生活が残っていて、トイレは青空トイレ、馬が鋤を引いて畑を耕しているようなどこか牧歌的な雰囲気がある素敵な町でした。
 電灯が殆どないので夜は満点の星空を堪能しました。日本とは少し星座の位置が異なりますが、北斗七星やおとめ座など本当に綺麗な星空でした。

 4/28(月) 昨晩の就寝が早かったせいか5時過ぎに目が覚め、外に出るともう既に地元の方は農作業や食事の準備などを始めていました。砂漠地帯は昼夜の温度差が大きいのでこの時期でも朝の気温は10℃ぐらいまで下がり寒かったのですが、日課になっているヨガを内モンゴルのおいしい空気をいっぱい吸いながら1時間ぐらいやると身体もポカポカしてきて、気分もすっきりして「よーし、緑化するぞ~!」っと気合が入ってきました。

 緑化する砂漠化地帯へはジープで移動したのですが、砂地の悪路を走破する「パリダカールラリー」さながら上下左右前後、ありとあらゆる方向に身体が、そして頭が振られ、腰でバランスを取りながら進むこと1時間ぐらいでようやく初日の活動地に到着しました。

 初日の活動地 ダチンノール村http://www.foejapan.org/desert/datin/index.html)は、第1期緑化地域(2001年~)で7年前は草木が殆ど生えていない砂漠地だった所ですが、7年間の植樹の甲斐あって、ポプラの木が防風の効果を発揮し、砂の固定化も進み、草も大分生えてきていました。
 7年前に植林を始める前の写真と現在の写真をFoEのHome Pageで見ることができますが、活動の成果が目で見える形で現れていることにすごく感動しました。

 初日は地元の子供たち(モンゴル人)と共同作業ということで、日本人一人に子供が1人~2人ついて作業をしました。内モンゴルは、中国領ですがモンゴル人が一番多く住む地域だそうです。

 既に植えられていたポプラの間に松、サジー、ニレの苗木を植えていきました。子供たちとは、大きなジェスチャーでなんとか会話?しつつ行ったのですが、子供たちの純粋な目と進んで仕事をやる姿に心が顕れる想いがしました。

 午後は、植林したところより更に奥まで散策しに行ったのですが、まだ緑化を行っていない地域に出ると「これぞ砂漠!」という景色が一面に広がっていました。左上の写真の手前の緑は、植林されたポプラの木ですが、このポプラの木を挟んで片側が広大な砂漠で、反対側は少しづつ草木が生えていて、とても対照的でした。緑化活動がいかに有意義なものかを物語っていました。

 下の写真は、ポプラの木を植えたことで落ち葉が溜まり、腐葉土ができていました。ここが上の写真のような砂漠だったというのですから驚きです。

 内モンゴルで砂漠化が進んでいる地域は、もともとは草原だったそうです。遊牧民族だったモンゴル人が定住化させられ農業や牧畜に従事するようになり、開墾による木の伐採と過放牧により やぎ や 羊 が根こそぎ草を食べつくしたことによって砂漠化していったそうです。
 ですので、もともとは草原や森であった場所なので地下水も豊富にあり、一旦砂の移動を止めることができれば自然に草が生えてくるようです。

 3日目(4/29)に大青溝自然保護区という原生林が残る貴重な公園に行ったのですが、周辺地域が砂漠化する中でそこは、上の写真のようにニレの木やモンゴリナラなどの高木、アンズ、クワ、サンザシなどの中低木が生い茂る森(冷温帯落葉広葉樹林)でした。こんなにも豊かな森が砂漠化するなんて、、、、信じられないですが、人間が自然に与える影響の大きさに息が詰まるような想いがしました。

 4日目(4/30)は、典型的な農牧民が暮らすウリゴンボトグ村での植樹だったのですが、お昼は村長さんの家でご馳走になり、農民の暮らしを拝見でき、とてもいい体験でした。田畑を耕し、牛、羊、鶏、豚といった動物たちと共に暮らす生活をしています。
 しかし砂嵐の季節では、強風で舞い上げられた砂で目を開けることもできなくなり、農作業も困難になります。

 ゴーグル、マスク、帽子、耳かき、目薬、、、ツアーのしおりに持参するように書かれていた砂嵐対策グッズですが、ほんとに必要なのかなぁ、、っと少し疑っていたのですが、この日の砂嵐の凄さは半端ではなかったです。ゴーグルにマスク姿でようやく目を開けて息を吸うことが出来ましたが、叩きつけるような風で立っているのもやっとという状態でした。

 そんな強風吹き荒れる砂地獄の中での植樹は、過酷としか言いようがないものでした。こんなに過酷な状況の中で生活している地元住民の苦労を想うと何とかしてあげたいという気持ちでいっぱいになりました。
 地元の方々は、遠方から来た私達日本人を歓迎してくれ、屈託のない笑顔で接してこられたのがすごく印象的でした。地元の人たちと労苦を共にすると言葉は通じなくてもお互いハートが熱くなるような気がしました。

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内モンゴル砂漠緑化

2008年05月02日 | 木を植える

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私が感じた問題点 1
 植林活動は、FoEなどのNGOの活動の甲斐あって地元住民の理解も深まってきて、着実に進んできているようです。ただ、地元住民は砂漠化を食い止めることと同時に生計を立てるために"お金"になる木(経済林)を植えたいという考えが大勢を占めているようです。そのため成長の早いポプラの木を単一に植えることが多く、至るところにポプラの林が目に付きました。

 植林する木については、「外来種でないこと」が大事ですし、また生物多様性を考慮して「混合林にすること」がとても重要です。
 特に単一の木を植えることは、病害虫の被害を受けた際に一度に全てが枯れてしまう可能性があります。また植物だけでなく動物、昆虫、シダ類、菌類など多様性に富んだ森を育むことの重要性を考えるとポプラのみを植えるのではなく、針葉樹、広葉樹、果樹、低木、高木などを混ぜて植えることが重要だと思います。

 こういった生物多様性の重要性や外来種の危険性などの知識については、なかなか現地の人に理解してもらえないとFoEスタッフの成田さんや和田さんが苦慮されていました。

改善案
 日本人が持っている技術や知識、経験をいかに活かしていくかが課題だと思います。現地の人の意見を聞いて活動方針を決めていくことは非常に重要ではありますが、生物多様性、外来種といった問題に対しては着実に対策を行うことが必要だと思います。なかば強引にでも正しいことを行うことは、20年、50年、100年先を考える上で重要だと思います。

 また、住民の理解を得るために、例えば生物多様性や外来種といったことをモンゴル語の教科書にして地元住民に配布して教育することも一つの手だと思いました。

 あるいは、現地の人を日本に招いて『日本の里山』を紹介するのも良い方法だと思います。里山は、人の暮らしと自然とが一体となって支えあいながら成り立っています。楢やクヌギ、栗などの広葉樹は、腐葉土を作り、田畑を肥やし、間伐材はマキにしたり椎茸の種木にしたり、また竹の子を取ったりと、人と自然が持続的に共存し、多様性を育んでいる里山は、砂漠の緑化をする上でとても参考になる方法だと思います。

私が感じた問題点 2
 残留農薬問題で注目を集めている中国産の農産物ですが、内モンゴルなど砂漠化が進む地域では水不足は死活問題だということを改めて実感しました。

 中国における水不足は深刻で年間30万ヘクタール以上の草地が砂漠にのみこまれているといいます。水不足を深刻化させている原因は、木の伐採や過放牧による草地の減少によるもの以外に、猛烈な勢いで進む工業化が最大の要因だと指摘されています。河川の水や地下水を大量に汲み上げ、工業排水で河川を汚染している現状を「このままでは未来の世代に破壊的なツケが及ぶ」と世界銀行が警告しているそうです。(ナショナル ジオグラフィックより)

 一方食料自給率が低下の一途を辿っている日本は、農産物を輸入することで間接的に世界中から水を大量に輸入しています。また多くの日本の企業は中国に生産拠点を置き、バブルとも思える中国の工業化を後押ししています。

 「湯水のごとく」という表現があるように日本人にとって水不足は無縁とも思えるような話ですが、食料を海外に依存するということは、間接的に世界の水不足を煽っているということを私達消費者はきちんと認識し、自分自身の問題として捉えることが必要だと思います。
 『出来るだけ国産のもの選び、地産地消を心がけることがとても大事だ』と改めて思いました。

 

総括
 わずか5日間の短い活動ではありましたが、『砂漠化する』ということがどういうことなのかを身をもって体験でき、そこに暮らす人々と触れ合えたことは、恐らく一生忘れない思い出になったと思います。

 砂漠化が急速に進んでいるという問題は、マスコミでも大きく取り上げられることもありますが、その砂漠化も適正なやり方で防ぐことができること、また砂漠化してしまった所でも再生が可能であることをもっとマスコミなどで取り上げてもらい、募金という形でもいいので援助が拡大して欲しいと切に思いました。

 今回植えた木がどうなるのか、2年後、3年後、10年後、、、と継続して緑化活動に参加していきたいと思いました。

 私達の生活は、地球上で起きている様々な問題とどこかで必ず繋がっている、関係しているということ。なかなか実感できないかも知れませんが、世界に目を向け、想像する力を養い、様々な問題を決して他人事にしないことが、日本人である前に地球人である私達に、21世紀という時代を生きる上で問われていると感じました。

 


里山

2008年03月23日 | 木を植える

 FoEの里山ボランティアに参加してきました。
久しぶりの里山ボランティア参加だったのですが、今回は「椎茸の菌打ち」と「コナラの移植」が主な作業でした。

 幼い時によく裏山で1mぐらいに切ったクヌギの木が枕木のように組んであって、そこからキノコが生えているのをよく見かけましたが、自分でキノコの菌打ちをするのは初めて。いったいどうやってキノコが出来るのだろう…っと興味津々。実際やってみて、すごく楽しかったです。

 里山に生えていたクヌギの木を切ってホダ木にして、そのホダ木に穴を開け、シイタケの種駒を埋め込む作業は、かなり楽しかったです。菌打ちしたホダ木からは約2年で椎茸がなるそうです。

 里山は日本の原風景であり、都会から少し離れればたくさんありますが、その役目は驚くほど多彩です。

 例えば、関東平野は関東ローム層と言ってもともと痩せた土地ですが、昔の人はそこに里山を作り、クヌギやコナラなどの広葉樹を植えて、その落ち葉から腐葉土を作って畑や田圃に撒くことによって土を肥やしてきました。また、竹を育てて竹の子を取ったり、竹から梯子などを作ったり、ホダ木にして椎茸を栽培したり、栗を収穫したり、、、自然を育て、自然を利用し、生活の場として発達してきました。

 里山は人が手を加えることで生まれた自然ですが、その多様性はとても豊かです。最近では西洋からビオトープという言葉で紹介されることも多くなりましたが、里山は自然と共に生きる日本人の知恵、文化なんだと思います。

 都会からちょっと郊外に出ると驚くほど豊かな里山が広がっていることに驚かさせられます。しかし、年々日本各地の里山が手入れされなくなり、荒れてきているそうです。

 私がボランティアとして手入れを行った里山も周りが住宅地で世話をする人がいなくなってしまったために、東京都の依頼をうけて環境NGO FoE Japanが手入れを行っているところです。

 身近にありながら大変多様性に富んだ緑豊かな里山を皆の力を合わせて守っていきたいものですね。



木曽ひのき「300年の重み」

2007年06月12日 | 木を植える

 先週、森林ボランティアで「木曽ひのきで有名な赤沢休養林」に行ってきました。

 赤沢休養林は、長野県木曽福島にある国有天然林の森で、樹齢何百年にもなる木曽ヒノキやサワラが生い茂り、また伊勢神宮などの用材として奉納する御神木が育つとてもすばらしい森でした。

 赤沢での植林ボランティアは今回で3年ぶり2度目の参加でした。伊勢湾台風の時に被害を受け、その後にヒノキの植林がされた場所の手入れとしてヒノキの間伐とヒバの除伐をしてきました。

 赤沢休養林は、森林浴でも有名で樹齢何百年にもなるヒノキの森はまさに癒しの空間そのもの。宮崎駿監督の「もののけ姫」に出てくるような凛とした空気、森から湧き出す清流、苔むした倒木から新しい芽が生えている風景は、神秘的でもあり、それでいてなんだかほっとするような感じがしました。

 そんな素敵な場所でのボランティア作業は、とても気持ちがいいものですし、また古民家のような素敵な民宿に泊まったのですが、料理も地元の食材を使った郷土料理でとても美味しかったです。

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 さて今回の植林活動で推定樹齢300年にもなるヒノキの測量を行ったのですが、高さが約33メートル、幹の太さが直径約65cmもありました。この数値からおおよその「樹木のCO2蓄積量」が分かるのですが、どれくらいか分かります?

 約 3トン ぐらいになるそうです。

 「3トンかぁ、すごい!」っと思う人もいるかも知れませんが、でも普通CO2が3tと言われてもぴんとこないですよね。


 京都議定書では、日本は90年比で20%の削減を義務付けられていますが、はたしてどれだけの量の温室効果ガスを削減しないといけないかとなるとなかなか実感できないですよね。

 私たち一人ひとりが1年間で排出するCO2の量がだいたいどれくらいなのか、皆さん分かります?だいたいの数値を把握しておくと多少実感できるのではないでしょうか。

なんと一人あたり 約10トン ものCO2を排出しているそうです。

樹齢300年にもなる木が、なんと3.3本も必要ということになります。
10トンの内訳は、下記のようになっています。

  • 呼吸 0.3
  • 車 1.1
  • 灯油ストーブ 0.3
  • 給油器 0.3
  • エアコン 0.1
  • 冷蔵庫 0.05
  • その他 0.45
  • 産業・商業・運輸 7,4

(※NGO「地球緑化センター」の資料より)

 いかに私たちの生活スタイルが、地球の資源を浪費しているかが分かりますね。

 ではどうしたらよいのか、、、
 それは、できるだけ無駄な消費を抑え、積極的に環境保護に取り組むことがとても重要になってきていると思います。

 木を1本植えると約20kg、緑台を作ったり、国産材でダイニングテーブルを作ったりすると約30kgの削減になるそうです。ちょっとしたことでも一人ひとりの活動が社会を大きく動かすことになる時代です。ですから、まずは行動することが大事なんですね。これも情報化社会の良い面だと思います。

 


重慶での植林ボランティアの活動記録 その1

2005年02月05日 | 木を植える

 以前植林ボランティアとして中国の重慶に行ってきた時の様子をシリーズでお届けしたいと思います。

 地球緑化センターとの出会い

 小さい頃から自然と触れ合いながら育った私は、自然環境についてごく当たり前のように興味を抱くようになっていた。特に会社に入ってからは、会社で行われる環境公演会に参加するようになり、専門的に勉強をしてみたいという想いが強くなっていった。そうして環境関連の本や雑誌を読みあさるようになり、時には「世の中は狂っている」といった極論的な発想も抱くこともあった。環境保護がいくら叫ばれても干潟や珊瑚礁、アマゾンなどの貴重な自然の破壊活動はなくなるどころか、更にエスカレートしてきている。

 しかし、いくら本を読んで、現状や対策方法などを勉強してもそれは机上のことでしかなく、もどかしさばかりが募るだけだった。そこで何か行動を起こしたいという想いから、水道橋にあるボランティアセンターに行き、たまたま目に留まったのが「地球緑化センター」であった。

  手始めにまず参加したのが、中伊豆での植林活動だった。2002年5月のことである。新しいことに飛び込む時はちょっと不安に思うものですが、その時は不安というよりは期待の方が大きかった。日本の林業は、海外の安い木材に押されて壊滅的な状況にあることは報道されていて知っていたし、日本の森は死んでいるということも環境の本には書いてあった。でも、知識では知っているけど実体験として何も知らない。実際にどうなっているかを見たいという想いがあったので、期待の方が不安より勝っていたのだと思う。

 その日は桧の木の間伐を行ったのだが、間伐といっても既に樹齢が20年にもなっている木を切るのだから大仕事だった。のこぎりで追い口と受け口を作り、2、3人掛かりでロープを引っ張って倒すのである。めきめきーという音と共に大木が倒れる。 「あれ?、俺は何をしているのだ?」と素朴に思った。環境保護活動をしたくて参加したのに木を切っているではないか?ベテランのおじさんに聞いてみると、ここは経済林として収穫を目的として植えられているところなので、こうやって間伐をしてやらないと木が育たないのだと教えてくれた。

 日本は戦後、経済効率の高い森をつくるという政策のもと杉や桧といった針葉樹林を画一的に植えていくことを行った。この方法は、下草刈り、枝打ち、間伐といったことを木の一生を通して行わないとならないものでした。しかしその後、輸入材の影響で木材の価格が下落し、手入れをしても儲けにならない状態になっていったのである。そのため、今では日本の多くの森が野放し状態になっているのであった。

 この日、間伐することになっていた森に入って、その威容な姿に私は唖然とした。何かが変だと直感で感じた。まず、森が暗い。5mおきに整然と桧の木がする~~と植えられているのだが、日の光が全く入ってこないのである。更に、動物の気配が全くないのだ。薄気味悪い。手入れがされなくなると、下草も生えず、根も複雑に入り組むことがないので保水力も低くなり、本来の森としての機能を失ってしまうそうだ。こういう森が、日本にはそこら中にある。国土の67%が森林である日本の真の姿をそこで見たような気がした。

 


重慶での植林ボランティアの活動記録 その2

2005年02月05日 | 木を植える

中国植林ボランティアに参加を決める。

 作業が終わって宿泊所となっていた町の公民会に帰ると、町のおかみさんたちによる手料理が待っていた。地のものを使った郷土料理で、当然全ての料理が有機野菜を使っているそうだ。今朝採ってきたばかりのきのこやたらの芽の天ぷら、里芋の煮物、菜っ葉のお浸し。素朴だけど心に染みる料理で実に美味しかった。

 公民館のすぐそばには小さな温泉が湧いていて、慣れない仕事をして疲れた体を癒すことができた。温泉に旨い料理。これではボランティアに来たのか旅行に来たの分からなくなってきた。後で知ったのだが、これには「住民との交流」という重要な意味があるとのことだった。林業の崩壊でどうにもならなくなっているが、これまで山を守ってきたのは紛れもない地元の人たちである。われわれボランティアは、わざわざお金を出して死にかけた森をどうにかしようと都会からやってきているが、それはともすれば「よそ者」となってしまう。従って、「自然との共生」という同じ目標を持っていることをお互いが理解しあい、協力していかなければ事業の成功は有り得ないのである。めいっぱいの料理をつくってもてなしてくれたのは、お互いの理解があることの表われであり、とても重要なことだったのだ。

 夜には森林教室も行われ、地元の林野庁の人から林業の現実について生の声を聞くこともできた。この活動は、ボランティアの人、地元住民、そして行政がお互いに協力しあいながら行われているというのが非常に重要なことであることが理解できた。

 夕食後には、飲み会があり、年齢も職業も住んでいる所も違う人たちといろいろな話をすることができた。そこで今回の中国行きを決めるきっかけとなる出来事が起った。ちょうど父親と同じくらいの歳の小倉さんが、中国の現状について熱く語ってくれたのだ。この小倉さんの話しがなければ、今回の中国行きもなかったと思う。

 小倉さんは第2の人生を地球緑化センターにかけているそうで、国内だけでなく中国にも毎年植林に行っているそうだ。その日も4月に行った黄河流域での植林について語ってくれた。砂漠化の現状や黄砂の話し、中国人の生活や考え方、今行っている植林活動の様子などをときどきジョークを交えながら教えてくれた。中国の現状を聞いていて、「次はこれだ!!」と思った。レスターブラウンの「地球白書」に書いてあった中国における環境破壊のことをまさに実体験として語ってくれた小倉さんに尊敬の念を抱いた。と同時に俺も行きたいと思った。実際に行って、この目で確かめて、何かをしたいと思った。

 


重慶での植林ボランティアの活動記録 その3

2005年02月05日 | 木を植える

重慶に下り立つ  

 重慶の空は、話しで聞いていた通り暗く淀んでいた。飛行機を降りて、到着ロビーに着くと「こんにちは、よろしくお願いしま~~す。」という声。こちらこそと答えて見たものの中国に着いていきなり日本語で話しかけられ、拍子抜けしてしまった。

 話しかけてきてくれたどうみても若い彼女こそ今回のボランティアで散々お世話になった謝さんであった。今回の植林ボランティアには、中国側のスタッフ兼通訳として四川外語学院の学生さんが4人加わることになっていた。謝さんは、四川外語学院の日本語学科の2年生。日本語は、かなり上手。お陰で中国語を全くしゃべれない私は、大助かりだった。

 ここが中国かと空港を出るともうすっかり暗くなっていた。左ハンドルのバスに乗り込み、一路今回植林をする江津市へ向う。バスの中では、四川外語学院の日本語の先生でもあり地球緑化センター中国事務所の所長でもあるカクさん(変換で漢字が出てこない。。。)が、バスガイドをしてくれた。重慶は、坂が多くてすごくたいへんとか、重慶の女の子は美人が多いとか、重慶名物「火鍋」についてとか、流暢な日本語で話してくれた。お陰で、なんとなく重慶の雰囲気が分かってきた。

  バスは、高速道路をかっ飛ばしているようだった。何をそんなに急いでいるのか?高速道路を右往左往しながら絶えずクラクションを轟かせていた。まぁ、アジア旅行には慣れていたのでさほど驚かなかったが、日本は安全運転すぎるから渋滞するのかも知れないなぁと思ってしまった。1時間30分くらいで江津市のホテルに着いた。

 江津市で一番奇麗なホテル(といっても数えるほどしかホテルはないのだが)と聞いていただけあって、とても立派なホテルだった。ルームメイトは、千葉県から来ていた松本さん。27歳ということもあってすぐに仲良くなれた。なんとJAに勤めていて将来は農業をやりたいと考えているらしい。なんと!!と書いたのは、見た目は結構お洒落でかっこいい感じの人だったから意外に思ってしまったのだ。人は見かけによらないものだ。

 


重慶での植林ボランティアの活動記録 その4

2005年02月05日 | 木を植える

四川料理  荷解きも早々にディナーとなった。いよいよ本場の中国料理が食べられる。お腹もぺこぺこだ。「班ごとに座ってください。」と音高さんの声。なんだか修学旅行みたいだなぁと思ったが、私は名簿に従って2班の席に座った。

 音高さんは、緑化センターの事務局で働いている人で、中国語はまさにネイティブだった。彼女は、中国と日本のパイプ役を務めていてかなりのバイタリティの持ち主だった。

 植林ボランティアには今回30人も参加者がいたので4つの班に分かれて行動することになっていた。お世話になった謝さんは2班担当ということだった。中華料理ならではの回転テーブルだったので、ちょっとうきうきしながら席についた。若い二人はそちらへと班長に言われ、謝さんはいつも私の隣の席だった。まぁ、お陰でいろいろな話しが聞けてよかったのだが。。。。

 江津市の人民政府のお偉いさんの挨拶が舞台で行われていたが、目の前にずら~~と料理が並べられては話しなど聞ける訳がなかった。我が2班は、フライングで乾杯して頂くことになった。なんだか班長の佐藤さんがとってもいい人に思えた。

  「乾杯!!」コップに注がれていたのは焼酎で、なんとこれがアルコール度60%。口の中で蒸発するのが分かった。でも、いい酒だったのか二日酔いはしなかった。

  重慶は、今は直轄市だが、もともとは四川省なので当然料理は四川料理でとにかく辛かった。食材は実に豊富で、豚肉、米、チンゲンサイに香菜、カシュナッツ、ニンジンにきゅうり、そしてすっぽん。辛いけど実に旨かった。


重慶での植林ボランティアの活動記録 その5

2005年02月05日 | 木を植える

いよいよ植林

  2日目、あいにくの雨だった。バスで植林をする農村に向かった。その途中、物珍しいのか農民たちがジーとこっちを見つめている。植林は、現地の人と一緒に行うことになっているが、この人たちと果たして打ち解けることができるのだろうか、とっても不安になった。

 しかしそんな心配は全く意味ないことだった。最終日、村から離れる際に30代前半と思われる若者から握手と抱擁を求められることになるとは、この時は予想もしていなかった。言葉は分からないがその目は、「ありがとう。自分たちは友達だね」と言っているのが分かった。

  植林する場所は、江津市 徳感鎮。長江が見下ろせる山間の村だった。班ごとに別れて植林方法の説明が人民政府の人からあった。(人民政府のお偉いさんと話しができたのだからこんなに貴重な経験はないと思う。)

 それによると、なんとサツマイモやキャベツなどが植わっている畑になしの苗を植えていくのだそうだ。そう聞いて周りを見渡してみたが、その風景に唖然とした。一面、見渡す限り畑なのだ。農村なのだから当たり前だと思うかもしれないが、ここは山間の村である。つまり山が丸裸になっているのだ。360度畑で、木が殆どない。なんとも異様な光景である。

 日本にも山間に畑はあるが、林や森(里山)の間に作られているのが普通である。開墾による森林伐採が進み、土砂流出による大洪水が問題になっていることは、レスターブラウンの「地球白書」で読んで理解していたが、ここまで凄いとは思っていなかった。いくら中央政府の方針だからといってもここまでするものかと関心してしまった。それにしてもこの山全部をもとの状態(雑木林)にするには何年かかるのだろうか?

 


重慶での植林ボランティアの活動記録 その6

2005年02月05日 | 木を植える

重慶の現状

 ここで、今回植林をする重慶の現状について話しておこうと思う。(内容は、植林ボランティアの要項からの抜粋です。) 長江は青海省の高原に源を発し、6300km下流の上海で東シナ海に注ぎ込んでいる。長さは、世界3位。流域面積は、日本の5倍もある。この長江が最近頻繁に洪水を起こし、1998年9月には44年ぶりの大洪水になった。

 状況を重くみた中国政府は、9月1日から四川省内の森林伐採を一切禁止した。長江の上流域にあたる四川省だけでも表土流出面積は、全体の41%に達し、三峡ダムに流れ込む土砂は年間6億トンになる等、深刻な状況にある。1940年代の森林比率は30%だったが、1950年、1970年代の急激な森林伐採によって、一挙に10%に減少し、山はほとんど禿山となった。年間降水量1100ミリに及ぶ雨水により、水土流出が急速に進んだ。現在山間部は、耕作地として頂上まで開墾され、畑や水田に利用されたり、荒れ地のまま放置されたりしている。

 しかし、環境破壊は依然進行しており、早急に環境緑化を推進し生態系の回復や表土の安定を取り戻すことが必要になっている。現在、江津市人民政府及び住民は、旧来の畑作農業から生態系農業へ転換し、既に新しい環境緑化を目指した取り組みをスタートさせている。この活動に「地球緑化センター」が協力しているのである。