知足

自然と共に素敵に生きたい

ニューカレドニアとブータンのパラドックス

2009年05月20日 | ブータン旅行記

下記 日経ビジネスの記事は、実に考えさせられるものなので是非読んでみてください。

天国に一番近い島で体感した「資源は呪い」
~ ニューカレドニアとブータンのパラドックス ~
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090514/194715/?P=1

 資源が乏しいが、幸せな国として世界から注目を浴びているブータン。資源保有国で、天国に一番近い国と言われるニューカレドニア。
 生物多様性の面からもとても豊かな両国ですが、その実態は資源を持っているか持っていないかで対照的となっている。

 ちなみに「石油天然ガス・金属鉱物資源機構」のデータによると、

ニューカレドニアは世界5位のニッケル生産国
日本は世界第1位のニッケル消費国
日本の輸入国:インドネシア42%、フィリピン15%、ニューカレドニア13%
使い道としては、メッキ、触媒、磁性材料、非鉄合金、展伸材、電池、貨幣、磁気カード などなど多数

そして現在、ニューカレドニアにおいて、カナダのインコ社(現在は買収されブラジルのリオドセ)、日本の三井物産、住友金属鉱山などが進める、過去最大のニッケル開発事業に、国際協力銀行(JBIC)が公的資金を使った支援を検討しています。詳しくは、FoEJ Homeをご覧ください

 一見すると日々幸せな暮らしを送っている私たちですが、その生活は食糧、衣料、木材、工業原材料など殆どの資源を海外に依存しています。そうすると、私たちが何か物を買い、消費することが、実は熱帯林の違法伐採やインドネシアのマングローブの伐採といったことに、知らず知らずのうちに加担してしまっているかも知れないのです。そうやって想像力を膨らますと世界で起きている問題は、決して他人事ではないのだと私は感じています。

 ブータンは、本当に美しい素敵な国でした。私たちは、どこに向かっていくべきなのか考えさせられますね。

 


ブータン悠々自適旅

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 ヒマラヤ山脈の麓、仏教国「ブータン」へ行ってきました。まるで桃源郷のような風景が広がる神秘の国ブータンについて、私が感じたこの国の素晴らしさについて、触れていきたいと思います。

 ※少しずつですが、更新していく予定です。お楽しみに。。。


 虚空の聖域 タクツァン僧院

 


ヒマラヤの小国

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 
 白雲の上に浮かぶ世界最高峰「ヒマラヤ山脈」。

 仏教国「ブータン」(正式名称「Druk Yul/龍の国」)に向かう飛行機の中から望むヒマラヤ山脈の姿は、私たちの心を興奮状態に一気に押し上げた。
 いよいよ念願だったヒマラヤの小国「ブータン」にやってきた。

 翼が山裾に当たるのではないかと思うような低空飛行からブータンで一番長い直線道路と言われる滑走路にランディングした。ブータンで唯一の空の玄関口パロ空港のエアターミナルビル(と言ってもまるでお寺のような木造の建物)の前に止まると、私たちの飛行機の降り口に赤い絨毯がひかれた。
 そこへ車が横付けされ、絨毯の両サイドには人が並び、飛行機から高僧と思われる方がゆっくりと降りてくる。飛行機の中では、このちょっとしたセレモニーを見ようと大騒ぎになった。高僧らしきお坊さんは、迎えの人々の頭の上に一人ひとり手を載せ、お祈りをしていく。
 ブータン、この国は世界で唯一の大乗仏教を国教とする国である。全ての人に丁寧にお祈りをした後、車に乗ってVIP用の建物へ向かう高僧の姿は、何か崇高なオーラのようなものを感じた。

出迎えをうける高僧

パロ空港ターミナル

 彼女と二人で先ほど高僧が降りたステップ(当然、赤い絨毯は片付けられている)を降りると、抜けるような青空に鮮やかな色彩の飛行場の建物が目に飛び込んできた。
 スゥーー、ハァーーっと深呼吸すると、2,000mを超える高原のさわやかな空気が、私の肺の隅々にまで行き渡り、長年の夢だったブータンに本当に来たのだという想いが込み上げ、胸が熱くなった。

 国土が2,000mから7,000m以上まで広がっている山岳の国であるブータンは、どこに行っても景色が実に美しい。首都のティンプーでさえ標高2400mに位置し、日本の山の山頂にいるのと同じような標高です。ブータンの景色はまるでアルプスの国のハイジに出てくるような素晴らしいものでした。登山好きの私にとっては、どこにいても登山をしているような気持ちになれるのは本当に素晴らしいことだと思いました。

 車でティンプーからプナカに向かう際には、ドチュ・ラという峠を越えるのですが、その峠は3,150mもあり日本の北アルプスの山頂に匹敵する高さです。
 ブータンはつい30年前までは鎖国状態で、日本の江戸時代のように長い間外国人に対して門戸を閉ざしていました。そのため、アスファルトの道路が整備され始めたのもここ20年ぐらいの話です。
 ティンプーからプナカに抜けるこの道が整備されたのも最近のことで、それまでは隣町に行くのに3000m級の峠を徒歩で超えなければならなかったというから驚きです。

ドチュ・ラ峠(3,150m)

農村の風景

 峠から見える山々は、6,000m、7,000mを越えるというから日本とはスケールが違います。
 また、不思議なことに3,000mの山の上にも松の木など緑が生い茂っています。日本では例えば2,932mの白馬岳の山頂付近は森林限界を越え、高山植物が綺麗に花開く高原になっていますが、ブータンでは森林限界が3,700mぐらいとなっていて、3,000mぐらいでは普通に森林となっているとガイドのゲンボーさんが教えてくれた。
 ブータンはちょうど沖縄と同じくらいの緯度であるため、日本の本州と比べると日照時間が長く、温暖な気候であるため、森林限界の標高が日本より高くなっていると思われます。

 今回の旅では首都のティンプーのホテルに3泊し、パロでは地元住民の家に1泊するという貴重な体験をさせてもらいました。電気がまだまだ貴重なブータンでは夜9時ごろには就寝となるのですが、夜の静けさは何とも言えない落ち着きがあり、そこに流れている時間のリズムが明らかに日本とは違うように感じました。パロからティンプーへ、またティンプーからプナカへ向かう途中で見た田園風景もまた静けさと共に時間のリズムが恐ろしく静かであるように思えました。それは、日本の片田舎のようでもあり、桃源郷を想起させます。

ルンタには経文が書かれている

風に棚引くルンタ

 また、街や山、寺院や田畑など、至るところで「ルンタ」や「ダルシン」が風に棚引く風景は、「風の谷」という言葉がぴったりのように思えました。ダルシンは、白や色とりどりの縦長の幟で、ルンタはダルシンよりも小さい色とりどりの沢山の旗で、どちらも模様のように見えるのは、実はスートラ(経文)が書かれています。このルンタやダルシンは、風にはためくたびにその経文を一度唱えたのと同じ功徳があるといいます。
 私たちもお寺で購入したルンタを記念として3,150mの峠「ドチュ・ラ」にあるチョルテン(仏舎利)の脇の木に結んできました。私たちのルンタが風に棚引くたびに功徳が積めるというのですからありがたいことです。

 功徳を積むためには、ルンタやダルシンの他にもいろいろな方法がありますが、街のいたるところにあり、またお寺に参拝に来ている人が手にしているものとして、マニ車があります。
 マニ車は、経文が入った筒を1回転させると、ルンタやダルシンと同じように、その経を読んだのと同じ功徳が積めるというもの。なんて便利なシステムなんでしょう。
 マニ車は、経文を読むのと同じように時計回りで回す必要があります。

 時計回りをしないといけないものとしては、マニ車の他にチョルテン(仏舎利)の参拝があります。チョルテンには、四角いブータン式、五輪塔型のチベット式、目の描かれたネパール式があり、街の至るところに大小様々なチョルテンが立っていました。
 中でも面白かったのは、道の真ん中にもチョルテンがあり、車で通過する際にもチョルテンの左側を通る(時計回り)必要があります。ブータンの車は日本と同じ右ハンドルなのですが、ブータンに車が走り始めたのはここ20年ぐらいの話なので、おそらくチョルテンの左側を車が通るようにするために、右ハンドル=左側通行 を採用したのかなぁ、と思いました。


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生きた仏教

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 今回の旅の目的の一つは、生きた仏教を肌で感じたかったということがあります。葬式仏教と揶揄されるように日本の仏教は、特に都会で生活している若者にとっては、日常生活からかけ離れたイベント的なものになっているように思います。

 戦後の日本は貧しく辛い生活から「豊かさこそ幸福である」という発想のもとで経済成長を続け、気がついてみれば世界をリードする経済大国へと発展してきました。そんな豊かになった日本の社会では、当然全ての人が昔よりも幸福を感じながら生活をしている。そうでないと「豊かさ=幸福」というスローガンは成り立たないことになります。
 ところが、テレビや新聞では、自殺、凶悪犯罪、ニート、いじめ、格差社会、といった報道が毎日のように流れています。このことからも豊かさ、特に物質的な豊かさが、そのまま人の幸福に繋がるということは必ずしも言えないことは、もう明らかな事実です。
 私たち人間は、誰しも幸福になりたいという願望を抱いて生活しています。これは至って自然なことですが、では幸福とは何かということをはっきりと言える人は少ないのではないでしょうか。

 ブータンで2006年に行われた国勢調査の中で「あなたはいま、幸せですか」という質問に対して国民の97%が「幸せです」と答えたそうです。今回の旅行でガイドをして頂いたゲンボーさんに同じ質問をしてみたところ、はっきりと「I'm happy」という答えが返ってきました。ブータン国民が幸せを感じて生活をしている、その根底にあるのは、仏教という心の支えであることは、旅の途中で何度も感じることができました。

 今ブータンでは、鎖国を解き、民主化の道を模索しています。しかし日本や欧米諸国のような経済発展一辺倒のやり方ではなく、国民の幸福こそが国の発展であるという考えのもと、GNH(国民総幸福)という全く新しい考えを指標としています。
 GNHについては、後ほど触れたいと思いますが、日本を始め多くの先進国が心の問題を抱えつつ、限られた地球の資源をいわば略奪的なやり方で消費することで、物質的な豊かさを実現しているのに対して、ブータンは他国からの資源や化石燃料に殆ど依存していない生活をおくりながら、国民が幸福を享受しているという事実があります。
 このヒマラヤの小国ブータンから、私たちは多くのことを学ぶことができるのではないでしょうか。

 さて、仏教では、五戒として「不殺生、不偸盗、不妄語、不飲酒、不邪淫(ヨガのスートラのニヤマと同じ)」が課せられています。
 インドを旅した時にも感じたことですが、ブータンでは、動物に対する愛護が非常に強いと感じました。道路では牛や馬やヤギが寝そべっているのは普通ですし、特に野良犬(というより野生の犬?)や飼い犬の多さに驚きました。車での移動中にも何度も犬が5、6匹以上の群れをつくっているのを見掛けました。
 日本なら犬が群れを作っていたら、ある種の恐怖を感じるかも知れませんが、ブータンではそんな犬達もとてものんびりとしていて、優雅に幸せそうに暮らしているように見えます。道行く人も何ら気にすることもなく、むしろ好意的な態度で接しています。
 これは、不殺生を重んじていている仏教的な要素もありますが、ゲンボーさんに聞くとむしろ輪廻転生の考えから来る習慣だと教えてもらえました。

 仏教では、無数の過去から、無数の生涯を生きている心の繋がりを考えます。輪廻には六種あり、天、人、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄がありますが、犬は人に一番近い動物(畜生)の一つなのだそうです。ですから、目の前にいる犬がもしかしたら先祖の生まれ変わりかも知れないですし、自分の来世が犬かも知れないのです。そう考えているブータン人は、犬に対して動物愛を超えた深い繋がりを感じ、犬に接しているように感じました。

 来世でよりよい生、境遇に生まれるためにも、この現世でいかに功徳を積むことができるかを考えながら、毎日の生活を充実させようと努力するブータン人は、常に笑顔が絶えず、生きるということ自体に幸せを見出しているようにも思えました。

 もう一つ触れておきたい仏教の考えとして「縁起」があります。縁起を簡単に説明すると「全ての物事は、様々な原因によってその結果として起こる」ということ。因果応報とも言います。どんな物事にも必ず原因があり、また何かを行えば、何かしらの結果が伴うということです。
 つまり「行為の自己責任性」ということになりますが、これは説明されると当たり前のことだと納得できるのですが、普段の生活の中ではつい忘れてしまいがちです。

 例えば、地球温暖化問題は、私たちの生活スタイルが化石燃料に大きく依存した生活スタイルになっていることが主たる原因ですし、自殺や凶悪犯罪にしても必ずその事実の裏側には何かしらの原因が隠されています。それは、一つではなく複数の要因であるかも知れません。
 私たちが何かをすれば、その反作用として事象が起きる。これは宇宙の法則として物理の世界でも立証されていることですが、私たちが生活している中ではなかなか意識できないことでもあります。
 しかし、この縁起を考えた時に、陰と陽、作用と反作用という摂理を理解することが出来ますし、縁起があるからこそ多様性が存在するのだと思います。また、多様性は全体として調和、バランスを保つことがとても重要ですし、宇宙の法則として必ずバランスを取る方向に動くことも理解できると思います。
 この縁起という仏教の考え方は、まさに最先端の現代科学が解き明かそうとしているものでもあると聞いたことがあります。

 地球環境問題、貧困問題、水問題、砂漠化問題、森林減少問題、人口増加問題、食料問題、、、21世紀になっても未だ山積している私たち人間が引き起こしている問題は、元を辿っていくと根本的なところでは、私たち一人ひとりの心の問題に行き着くと私は考えています。
 物質偏重的な経済発展を進めることは、良くも悪くも私たちが「幸せになりたい」という願望がその根本にあります。先にも触れましたが、この願望自体は自然なことで決して嫌悪するべきことではないですが、その本質を理解することが私たちが抱える多くの問題の解決に繋がると私は考えています。

 仏教では、人間存在のもっとも本質的な苦しみを、生、老、病、死「四苦」として客観的に事実を認識し、苦しみを超越、超克する道(八正道)を肯定的に提案しています(四聖諦)。そして、チベットやブータンで発展した大乗仏教では、「菩薩乗」とも呼ばれ、修行を自分一人のためにする「自利」ではなく、他の人のために行うという「利他」の精神を強調しています。
 この利他の精神が、慈悲であり、善行を積み、それによって得た功徳を他人に与えるという考えが「廻向」です。善行を積み、功徳を得て、それを他人に廻向しようと努力する(菩薩行)。
 大乗仏教のこうした考え方で生きているブータンの国民にとって、幸福に対する価値観は、私たちとは明らかに違っているように思われます。また、国民の97%が「自分は幸せである」と答えていることも頷けるような気がしました。


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GNH「国民総幸福」

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 さて、ブータンが国の発展の指標としているGNH「国民総幸福」について触れたいと思います。
現在、世界経済の指標となっているGNP「国民総生産」が、「物が豊かにあること」が発展に繋がるという考えに対して、GNHは「幸福」であることが発展に繋がるという発想の大転換を意味しています。
 GNHとは、Gross National Happinessの略で、GNHが目指す幸福を実現するための柱として次の4つを掲げているそうです。すなわち、①健全な経済発展と開発、②環境の保全と持続的な利用、③文化の保護と振興、④いい統治 です。

 その根本にあるのは、大乗仏教の考えであり、"もの"ではなく"こころ"が豊かであることが国の発展に繋がるという考えです。

 私たちがよくニュースなどで耳にするGDPやGNPは、経済発展の指標として用いられ、GNPが下がれば社会問題となり、上がれば国が豊かになったと判断されます。
 しかし、例えば戦争が起き、武器の需要が増え、兵士としての雇用が増大するとGNPは増えますし、戦争とまでは言わなくても例えば、交通事故が発生した際にも車の修理や病院の治療費などにより、GNPは上がることになります。私たちにとって悲しい出来事であってもGNPは増えることになります。
 また逆に、野菜を家庭菜園で育て、自給自足する生活をおくっていたり、専業主婦として家事労働をどれだけ行ったとしてもGNPが増えることはありません。

 最近よく耳にする「経済成長なくしてXXXだ!」「持続可能な成長」という言葉。成長といっても何を指標としての成長かで社会の姿は180度変わってしまうと思います。確かに物が豊かに有り、消費することは楽しみの一つかも知れませんが、お金のために休む暇がないほど働いたとして、本当に幸せかと問われると答えに窮してしまうのではないでしょうか。もうそろそろ経済や国の発展をGNPやGDPで語るのは終わりにするべき時代なのではないでしょうか。

 鮮やかな青い空、風に棚引くダルシン、マニ車を回し、チョルテンに毎日お参りに行く。そこに流れている時の流れは、とても穏やかでゆっくりとしていた。そのゆっくりとした時の流れをブータンの人々は、純粋に楽しんでいるようにも感じました。
 特に子供たちの笑顔、やんちゃぶりはとても印象に残りました。男の子も女の子も泥んこになって遊び、底抜けな笑顔で寄ってくる姿を目にして、なんだか自分も童心に帰って一緒に遊びたくなってしまいました。
 また、大人たちも例えば車ですれ違う際にも「クズ ザンポーラ(こんにちは)」と気さくに話しかけ、二言、三言会話を交わすのが常でしたし、ガイドのゲンボーさんがどこに行っても知り合いがいるのにはとても驚きました。
 ブータンが小さい国であることも一理あるとは思いますが、基本的にどんな人でも気さくに話しかけ、情報交換したり、談笑するのがどうやらブータンでは普通のことのようでした。

 ブータンを旅して感じたこの雰囲気は、おそらく戦前や江戸時代には日本でも普通に見られた光景なのかもしれません。そう思うと、我々が物の豊かさの代償として失いかけている"本当の豊かさ"を本気で見直さないといけない時期に日本は来ているのではないかと感じました。


 さて、「国民総幸福」論について、ブータン王妃 アシ・ドルジ・ワンモ・ワンチュック陛下の言葉を引用したいと思います。(「虹と雲、王妃の父が生きたブータン現代史」より)

 「国民総幸福」論

 私たちが懸念しているのは、私たちを駆り立てている価値観の問題です。世界の人口の大半が、極度の経済的苦しみに直面していることからして、物質的発展が必要なことは自明です。
 と同時に、いわゆる「富んだ半球」である北半球でも、心配、不安、ストレスといった精神的苦しみが大きいことを考えると、精神的発展が必要なことは、それ以上に明白です。技術革新、グローバリゼーション=世界市場化といった現象は、私たちの欲望および消費をますます煽り立て、私たちをいっそう官能主義的にしています。

 そうしたなかで、先進国、開発途上国とを問わず、世界の人々および政府は、よりよい生活といっそうの幸福を確保しようと努力しています。しかし、皆様もお気づきのように、現在の経済の主流は、個人が消費者であること、そして消費者が王様であることを正当化し、個人をその快楽に溺れさせています。
 こうした近代化のなかでは、人々はいっそう消費に走り、ますます消費の自由を追求します。企業にとっては、それが売り上げを伸ばし、市場を拡張する唯一の道です。こうした近代化の理論は、一般には疑問視されることはありません。しかし仏教徒としては、はたしてそれば倫理的な制度に基づいた本当の幸せをもたらすものかどうかを、考えねばならないと思います。

 仏教では、わたしたちが幸せで健全な社会生活を送るためには「四無量心」すなわち四つの無限の心、
    第一に人に楽を与える慈無量心、
    第二に人の苦しみをなくす悲無量心、
    第三に人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ喜無量心、
    そして最後に恨みを捨てる捨無量心、

 この四つが必要であると教えています。現在進行中の近代化は、こうした仏教の理念に即した社会を実現する可能性を根底から覆すものなのではないのかと、自問せざるをえません。わたしたちブータン人は、本との意味で開花した人間および社会を実現する、別な近代化の道があるのではないかと模索しています。ほんとに開花した人間とは、単に開発の主人公としての人間とは別物です。

 ブータンが心がけているのは、仏教に深く根ざしたブータン文化に立脚した社会福祉、優先順位、目的に適った近代化の方向を見出すことです。最近になってGross National Happinessすなわち「国民総幸福」という指針が各国でも真剣に取り上げられるようになりましたが、これはすでに二十年以上も前に現ブータン国王が提唱したものです。Gross National Happinessすなわち「国民総幸福」は仏教的人生観に裏打ちされたもので、わたしたちが新しい社会改革、開発を考える上での指針です。
 一部の人々は、仏教をはじめとする哲学的考察と、政治、経済は、異なった次元のものだと考えていますが、けっしてそうではなく、すべてが統合され、総合的に考慮されるべきものです。

 今日もっとも重要な課題は、西洋的政治・経済の理論と仏教的洞察との溝を埋めることです。仏教の活力と仏教社会の将来は、仏教の理想をどのようにして社会の進むべき方向、あるいは取るべき選択に肯定的に反映することができるか否かにかかっています。



 日本でもニートや失業率の悪化や自殺者の増加など格差社会の問題が露呈し、物質的には豊かであっても精神的には決して豊かでない社会構造に対して疑問視する動きが見られるようになりました。
 "こころ"の豊かさが発展の基本であるとする「国民総幸福」に経済活動を大転換する時代に来ていると思います。

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ブータンの近代化

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 さて、ここまでは仏教国ブータンが、鎖国を解き、近代化するにあたって指標としているGNH「国民総幸福」の概念的な面に触れてきましたが、実際にブータン社会がどのように変わってきているかについて、短い旅ではありましたが旅先で見た現在のブータンについて触れたいと思います。

◎交通事情

道路でのんびり、、

交通整理するお巡りさん


 ティンプーは、ブータンの首都として急速に拡大していて、人口も他の街に比べて格段に多いと感じました。とは言っても、日本の温泉街のような街並みで、信号機も一つもなく、ブータン唯一のハイウェイ(4車線道路)には牛がのほほんと歩いていて、とてもスピードを出せる道路ではありませんでした。
 ハイウェイを作る際には、ブータンで60kmを出せる道路として期待が高かったと聞いていたのですが、残念ながら牛様には適わないようです。また、ブータンには信号機が一つもないのですが、以前あった唯一の信号機もブータンには馴染まないという理由で撤去されたと聞きました。首都ティンプーにあるメイン交差点でお巡りさんが交通整理している風景は、ブータンらしさがあって、なかなかいいものです。

◎マーケット

野菜マーケット

唐辛子を売るおじいさん


 マーケットに行くとその国の人の暮らしぶりや文化が分かるので、海外に行った際には必ず行くことにしています。ティンプーの野菜市場は、河原の駐車場のようなところにテントを張り、所狭しと品物が並んでいて、活気もあって面白かったです。

 しかし、衛生面はアジア諸国でよく見かけるようにかなり劣悪で、地べたはぬかるみ、溝にはヘドロと共にプラスティックのゴミが散乱していました。


 中国内陸部、タイ、マレーシア、インドなど私が訪れたアジア諸国で共通しているのは、もともとは自給自足的な暮らしをしていたところに、外からプラスティック用品が入ってきて、ゴミの処分方法も知らないため、何も考えずに道端や溝などにごみを捨ててしまっている光景です。

 これまでは、例えば木や葉で出来たお皿や土器などを使っていたため、捨てても土にかえるので問題にならなかったのですが、同じような感覚でプラスティックや銀紙、家電製品などを捨ててしまうのです。

 また、都市の人口が増えると自然の自浄作用以上のし尿が発生し、川や池などがヘドロ化し、異臭が発生します。こういった景色をアジア諸国で見てきてはいたのですが、ブータンはとても綺麗な国というイメージがあったので、ブータンは例外できっとヘドロなどはないのではと考えていました。しかし、やはりブータンでも同様のことが発生していて、少しショックでした。

 日本も20年ぐらい前までは同様でしたが、近代化する際に必ず発生する公害問題に対して、予め上下水道やごみ焼却炉など、社会インフラを整備し、その上で都市開発を進めるということが非常に重要だと改め思いました。また、せっかくGNH「国民総幸福」を指標として近代化を進めているブータンなので、こういったゴミや下水処理といった問題に早急に対処して欲しいと思いました。

◎庶民の暮らし
 せっかくブータンに行くので出来れば庶民の暮らしも体験したいということで、旅行会社にお願いしたところ、ブータンでは平均的な暮らしぶりのパロ近郊の農家に一泊するという貴重な体験をさせて頂きました。
 外門をくぐると中庭があり、手前は牛小屋、奥に母屋があり、玄関は二階にあります。いわば、高床式住居のような構造になっていて、中に入ると土間があり、更に階段を登って三階が住居となっていました。四階は、冬の食料の備蓄倉庫になっているそうです。

 台所には、撒き釜がありましたが、今は使っていないようでした。小さい頃、実家の近くにあった郷土資料館で日本の昔の家を再現しているのを見たことがありますが、まさにそこで見たようなキッチンで、おばあちゃんが、ブータンの家庭料理「エマ・ダツィ」を作っていました。

 私と彼女は、客間に通されたのですが、その奥にはとても立派な仏間があり、仏壇には中央に立派なシャカ・ムニ・ブッダの像があり、まるでお寺のような雰囲気で、心が落ち着く感じがして、本当に素晴らしかったです。

 ブータンの国語は、ゾンカ語なのですが、おばあちゃん、おじいちゃんはゾンカ語しか話すことができなかったのですが、子供たちは学校で英語を習っていて、しかもとても流暢に話すのには驚きでした。

 電気は、パロでは普及していて、私たちが泊まった家にも来ていましたが、人がいない所ではすぐに消灯するというのを徹底していました。ガイドのゲンボーさんの話では、ブータンの電力は、アルプス山脈を流れる急流の川を利用して水力発電を行っていて、国内で余った電力をインドに売却し、貴重な外貨収入になっているそうです。水力発電は、発電時にはCO2を出さない自然エネルギーですから、ブータンは電気の使用量も少ない上に自然エネルギーのみでの発電なので極めて低炭素社会を実現していると言えます。

◎民族衣装
 ブータンでは、公共の場での民族衣装の着用が義務付けられています。男性用は「ゴ」、女性用は「キラ」と言います。
 私も試着させて頂いたのですが、男性用のゴは、膝上ぐらいの長さの着物で、帯で閉めます。帯は、丹田の辺りでお腹をしっかりと締め付けるため、力が腹に篭もり、いわゆる腹が据わった状態になるため、ゴを着るだけで心が落ち着き、やる気が出てくるような気がしました。

 最近は、膝上ぐらいまであるロングソックスを履くのが流行らしく、道行く男性は皆、ロングソックスを履いていて、なかなかお洒落でした。

 パロの街では、ゴを着た男たちが弓道場に集まり、国技にもなっている弓を興じているのを見学したのですが、背筋がピンと伸ばし、精神統一して弓を射る姿は、実に凛々しかったです。最近は、義務付けられている公共の場以外でも自主的にゴやキラを着る人が増えているそうです。

 また、民族衣装の着用を義務付けたことで、いろいろな利点もがあるようです。例えば、

  • ゴやキラを作るための手織り物産業が盛んになった
  • 国民の愛国心、民族意識の向上に繋がっている
  • 主な外貨収入になっている観光産業に貢献
  • 男性用のゴは、膝上ぐらいの長さであることから農作業などにも向いているなどなど

 ただ、ティンプーの夜の街を散策したのですが、さすがに夜の街に繰り出している若者は、民族衣装は着ないで、GパンにTシャツ姿の人が多かったです。また、公共の場で吸うことを禁止されているタバコを吸っている人も何人か見かけました。

 鎖国を解き、異国の文化や情報が押し寄せてくる中で、特に若者の生活スタイルは変化してきているようでした。


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環境保護と仏教

2008年08月17日 | ブータン旅行記

 「雨の降り方が、変わってきたと街の人が言っていますよ。」
 「温暖化による気候変動の影響はブータンにもありますか」との問いに、ガイドのゲンボーさんが少し顔を曇らせながら答えた。

 伝統的な暮らしを保ちながら民主化を進めるブータンでは、先に触れたGNH(国民総幸福)を指標としながら持続可能な発展を模索しています。

 旅をしていて、ブータンの街は、とてもカラフルだと感じました。寺院や公共の建物だけでなく、庶民の家にもカラフルな色彩の彫刻が軒や窓枠に飾られているため、街全体の景観が、文化的でとても素敵です。
 その色鮮やかな伝統的な家屋をよくよく見ると、屋根はトタンで出来ているものが多いことに気付きます。これは、国が少しずつ発展するにつれ、人口が増加し、新築の家が急激に増えていることから、昔ながらの木材による屋根を制限しているためだと、ゲンボーさんが教えてくれました。

 ブータンでは、1974年に「国土の60%以上を森林とする」森林政策が出されました。実は、ブータンの土地は表土が薄い上に、ヒマラヤ山脈に位置することから斜面が非常に急峻で、むやみに森林を破壊すると土砂流出や土石流など甚大な被害が発生する可能性が高いそうです。

 実際、ブータンのお隣のネパールでは、森林開拓により表土が露出し、土石流による災害が頻発しているそうです。そのため、砂防ダムを建設するのに膨大な資金が必要になっているという話も聞きました。
 こういった隣国の教訓も取り入れながら、ブータンは持続可能な発展を模索しているのですね。

 さて、有限な資源と自然環境をどう守っていくのか。この問いに対して、まず考えるべきこととして、そもそも人間は何故、経済発展の名の下で資源を消費するのか、ということを考える必要があると思います。
 それは、問い詰めると、"幸せになりたい"、"幸福でいたい" という誰しもが抱く願望から来ていると言えます。

 この"幸福"の定義を 幸福=財産/欲望 という式で表すと分かりやすいと思います。これは、よく経済書などにも出てくる考えですが、幸福を求めるには、財を増やすか、あるいは 欲望を減らすか ということですね。

 GDPを指標として経済成長を求めるやり方は、財 を得ることで幸福を得ようとする考えだとも言えます。しかし皆さんも経験していると思いますが、一度得た財による喜びはあまり長続きせず、満たされるとすぐにまた次なる欲望が生まれるということがよくあります。

 例えば、「欲しくて仕方なかった新車を手に入れて、かなり興奮していたはずが、3年もすると、なんだか物足りなさを感じ、次の車が欲しくなる」なんてことはありませんか?車に執着するあまりに、大枚を叩いてしまったり、車の維持費に悩んだりしながらも、もっといい車が欲しいという感情(欲望)に支配されている。車でないにしても、このような経験は、多かれ少なかれ誰でもあることだと思います。

 この様に、直ぐに次なる欲望が生まれるからこそ、実は経済成長を続けることが出来るのですが、これは 財=資源 が無限にあるのであれば、何も問題ないのかも知れません。しかし、私たちが住むガイア「地球」はもちろん有限です。

 エコロジカル・フットプリント(Ecological Footprint)という言葉をご存知でしょうか。
 これは、あるエリアの経済活動の規模を面積で表したものです。この指標によると「世界中の人々が日本人のような暮らしをはじめたら、地球が約2.4個必要」で、「アメリカの場合には、地球が約5.3個必要」ということになります。

 財を得ることが幸せ という構図に従って、戦略的に私たちの欲望を煽り、需要を作り出す経済社会の限界は、このエコロジカル・フットプリントからも明らかです。

 さて、財=資源には限界があるのですから、私たちが幸せになるには、「欲望を減らす」道を探る必要があります。「欲望を減らす」というと、なんだかネガティブに思われるかも知れないですが、これは仏教で言う、「足るを知る(知足)」ということだと思います。

 日本が戦後、飛躍的な経済成長を続けてこれたのは、「中流社会」を目指すという日本独特のやり方があったからだと私は考えています。
 中流社会は、億万長者が突出することもなく、日々生きるか死ぬかの瀬戸際で生活する最貧困層を作ることもなく、みな中流でいて、全体として豊かさを求め、みんなが幸せな暮らしを目指す、という論理によって成り立っていた社会です。

 中流を求める。これは仏教の「中道」に近い考え方だと私は考えています。

 中道とは、多すぎること(貪欲)でもなく、少なすぎること(禁欲)でもなく、その中間にこそ真理があり、中道の実践が、悟りに繋がる。という考えです。
 中道は、先にも触れた「知足」、つまり「既に満たされていることを知る」という考えにも繋がります。

 「あぁ、そっか、俺って実は幸せかも!」「いや~、まじ幸せだなぁ~!」「めっちゃ、感動したよ~」「自然と涙が出てきた、、、」

 心のそこから沸き起こってくる幸せ。この感情は、「自分自身が既に幸せである、既に満たされている」ということに気付いた時に起きるものだと思います。
 つまり、足るを知って、欲望をコントロールすることで、幸せはいくらでも体験できるものです。

 幸せは、自分の心に内在している感情であるから、それに気付かない限り、いくら物質的に恵まれていたとしても、幸せを感じることはできないのですね。だからこそ、貪欲であっても、禁欲であっても駄目なんだと思います。

 仏教国であるブータンは、この中道を国家戦略として、「物質文化と精神文化の中道を目指す」としています。

 もしこれが実現できたならば、(既に実現しているので、このまま中道の道で発展を続けられたら)、ブータンという小国は、まさに「世界の最先端をいく、豊かな国」「持続可能な発展を続ける国」になるのではないでしょうか。

 今回の旅を通して、仏教の考え方を近代社会に組み込みながら、一歩一歩成長を続けるブータンを感じることが出来ました。
 そして、10年後、20年後先にどうなっているか、再度ブータンを訪れてみたいと思いました。

 ヒマラヤ山脈の麓の小さな仏教王国「ブータン」に出会えたことに感謝しています。

 Kadrinche La(カデェンチェラ)。ありがとうございました。


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