食中毒騒ぎや反日問題、北京オリンピック開催、黄砂、、などなど、話題に尽きない隣国中国。日本企業が次々に進出し、今や中国なくしては日本の経済は語れないと言われます。
凄まじい勢いで成長を続ける中国経済は、その華やかな側面の一方で"格差社会"という大きな歪みが生じています。
数年前、中国内陸部の重慶に植林ボランティアに行ったことがあります。内陸部の農村では、もともと自給自足の生活をしていたところに少しずつ資本経済が都市部から遅れて訪れ、現金収入が必要な生活が始まっています。しかし、貧しい農家の収入はごく限られれたものです。生活するためにお金が必要になった農民は、少しでも現金収入を得るために農地を開拓し、山という山を全て丸裸にして開墾していきました。
重慶でも都市部から少し入った山間部では、全く木々がない丸裸の山が一面に広がっていました。木を一本残らず切ってしまった山は、当然のことながら土砂崩れを起こしやすくなります。
長江流域では頻繁に洪水が発生し、1998年9月には44年ぶりの大洪水に見舞われています。この大洪水を期に中国政府は、森が持つ保水力を復元させるために植林に乗り出しました。
日本から来たボランティアスタッフ、人民政府のお役人、農民が一緒になって丸裸になった山々に植林していくのですが、訪れてまず最初に衝撃を受けたのは、そこに暮らす貧しい農民の姿でした。
村には電気や水道といった公共の施設は全く整備されておらず、土塀に藁葺きの屋根でできたすぐにでも壊れそうな家に住み、ほぼ自給自足的な質素な暮らしをしています。そんな農民たちにとって、限られた現金収入となる農地は、まさに生きるためのもの。
その畑に日本から来た私たちは、木を植えていくのです。そのため、植林といっても梨などの果樹を植えることで少しでも現金収入が得られるような配慮をしていました。
そんな貧しい農民の暮らしと、凄まじい発展を続ける都市部との格差の問題は本当に深刻な問題だと思います。
先日NHKの「激流中国 富人と農民工」という番組を見ました。この番組でも次のように問いかけていました。
「激流中国 富人と農民工」
http://www.nhk.or.jp/special/onair/070401.html
社会の中で格差が広がり、勝ち組と負け組の差が鮮明になっている。中国政府は、今、経済成長を最優先してきた結果、生まれた歪みの是正を最優先課題に位置づけ、「調和の取れた社会」「みなが豊かになる社会」建設をスローガンに掲げている。なぜ格差は拡大し続けるのか、貧しい人々がはい上がるのが困難な理由は何か。貧・富それぞれの現場に徹底的に密着し、中国政府が今、最大の課題とするこの問題に迫る。
番組で中国政府は、貧困にあえぐ農民たちを出稼ぎとして都市部に呼び寄せ、都市での発展にとって必須となっている労働力を確保し、農民にとっては現金収入をもたらす政策を行っていると報じていました。そしてその結果、知識も経験もない農民たちが劣悪な環境で労働を強いられたり、若者が都市部に流れることで農村での労働力がなくなる空洞化が新たな問題として浮上していると報じていました。
発展こそが貧困から抜け出せる道だと信じて邁進する中国経済。しかしその実態は、勝ち負けの論理がまかり通る格差社会を生み出しています。では、どうすればよいのか、、、、
私は、世界中で見られる格差社会からの脱却の糸口として仏教国ブータンが進めている「国民総幸福」による経済に注目しています。
現在世界経済の指標となっている「国民総生産」が、「物が豊かにあること」が社会の発展に繋がるという考えであるのに対して、「国民総幸福」は、「幸福」であることが発展に繋がるという考えであり、発想の大転換を意味しています。大乗仏教が国民生活の基礎にあるブータンは、"もの"ではなく"こころ"が豊かであることが国の発展に繋がるという考えとして「国民総幸福」を国策としている小国です。
「国民総幸福」論について、ブータン王妃 アシ・ドルジ・ワンモ・ワンチュック陛下の言葉を引用したいと思います。(「虹と雲、王妃の父が生きたブータン現代史」より)
「国民総幸福」論
私たちが懸念しているのは、私たちを駆り立てている価値観の問題です。世界の人口の大半が、極度の経済的苦しみに直面していることからして、物質的発展が必要なことは自明です。
と同時に、いわゆる「富んだ半球」である北半球でも、心配、不安、ストレスといった精神的苦しみが大きいことを考えると、精神的発展が必要なことは、それ以上に明白です。技術革新、グローバリゼーション=世界市場化といった現象は、私たちの欲望および消費をますます煽り立て、私たちをいっそう官能主義的にしています。
そうしたなかで、先進国、開発途上国とを問わず、世界の人々および政府は、よりよい生活といっそうの幸福を確保しようと努力しています。しかし、皆様もお気づきのように、現在の経済の主流は、個人が消費者であること、そして消費者が王様であることを正当化し、個人をその快楽に溺れさせています。
こうした近代化のなかでは、人々はいっそう消費に走り、ますます消費の自由を追求します。企業にとっては、それが売り上げを伸ばし、市場を拡張する唯一の道です。こうした近代化の理論は、一般には疑問視されることはありません。しかし仏教徒としては、はたしてそれば倫理的な制度に基づいた本当の幸せをもたらすものかどうかを、考えねばならないと思います。
仏教では、わたしたちが幸せで健全な社会生活を送るためには「四無量心」すなわち四つの無限の心、
第一に人に楽を与える慈無量心、
第二に人の苦しみをなくす悲無量心、
第三に人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ喜無量心、
そして最後に恨みを捨てる捨無量心、
この四つが必要であると教えています。現在進行中の近代化は、こうした仏教の理念に即した社会を実現する可能性を根底から覆すものなのではないのかと、自問せざるをえません。わたしたちブータン人は、本当の意味で開花した人間および社会を実現する、別な近代化の道があるのではないかと模索しています。ほんとに開花した人間とは、単に開発の主人公としての人間とは別物です。
ブータンが心がけているのは、仏教に深く根ざしたブータン文化に立脚した社会福祉、優先順位、目的に適った近代化の方向を見出すことです。最近になってGross National Happinessすなわち「国民総幸福」という指針が各国でも真剣に取り上げられるようになりましたが、これはすでに二十年以上も前に現ブータン国王が提唱したものです。Gross National Happinessすなわち「国民総幸福」は仏教的人生観に裏打ちされたもので、わたしたちが新しい社会改革、開発を考える上での指針です。一部の人々は、仏教をはじめとする哲学的考察と、政治、経済は、異なった次元のものだと考えていますが、けっしてそうではなく、すべてが統合され、総合的に考慮されるべきものです。
今日もっとも重要な課題は、西洋的政治・経済の理論と仏教的洞察との溝を埋めることです。仏教の活力と仏教社会の将来は、仏教の理想をどのようにして社会の進むべき方向、あるいは取るべき選択に肯定的に反映することができるか否かにかかっています。
日本でもニートや失業率の悪化や自殺者の増加など格差社会の問題が露呈し、物質的には豊かであっても精神的には決して豊かでない社会構造に対して疑問視する動きが見られるようになりました。
"こころ"の豊かさが発展の基本であるとする「国民総幸福」に経済活動を大転換する時代に来ていると思います。
この「国民総幸福」を第一に考える社会、経済、政治が世界中に広まることができたならば、必ずや格差問題、貧困問題、環境問題、水問題、食料問題など人間活動に大きくのし掛かっている問題の多くが解決し、真に幸福な社会が実現するのではないでしょうか。