青い鳥を常に求めて

人生の理想を追求する姿勢で何事にも当たりたい。

美術館その6

2005-02-11 14:21:00 | Weblog
マスコミにもう一人T経済新聞社の現T支局長がいる。かなうかどうかは別として、この事業に拍手を送る人物がいた。同時に支社長も同じ応援者となった。

市長、教育委員長と会うことになり、後に後者は当会の相談役になって側面から協力して下さった。

その友人で岡崎市の名士の一人が理事長格で入会し、愈々充実の成果が現れ始めた頃
ビル管理の諸経費に耐えかねた会社側が4、5、6階を維持できないという結論をだしたのである。

行政も何とか継続をと本気で、説得に努力してくれたが、甲斐なく、利益重視の現代企業の合理化の犠牲になったのである。

支配人とテナント会長の無力が、会社上層部と私が会う機会を作れなかったのである。

もう一人、この行事の理解者は同系のモールの社長であった。東京の大会社を率いるだけの人物。大規模な展覧会、行事を評価して、部下を叱咤して、宣伝、広告を十分したかと問うて下さった。

役員の作品を祝儀買いするなと、この上なき理解者であった。

この社の全国十数か所はわが会の行事に全く協力を惜しまないのであった。

そして、最後に、知る人ぞ知る、Iグループの大人物とお会いすることとなる。前に記した支配人や関係者は恐ろしくて近寄れない人物だったと知ったのは後の祭り。

サラリーマン支配人たちは、自己防衛に汲々として、情けない、判らない、あいてにしたくない種類の人物がおおかったが、

前記の大物社長のもとにあった支配人は歴代当方とのお付き合いがあり、その大人物との仲立ちも買って出てくれた。

しかし、好意だけ頂いて、迷惑をかけない意味で、私が直接お会いすることにした。
女性とは思えないスケールの大きい人で、突然訪ねた私を丁寧に一時間以上もお相手をして下さった。

そして、その美術館を知らなかったことに驚き、共に好きな焼き物談義を交わした。

最初から、このお方と会っていたらと非常に残念であったが、時勢には如何ともし難いのだと、共に語り、再会の希望を残して失礼した。


美術館その5

2005-02-11 13:47:00 | Weblog
同時に周囲のスペースと5階を利用して展覧会、特に、日仏交流展の開催と毎年、ル・サロンの元会長を交互に招待して、審査と技術指導を行った。

広告、宣伝も殆どが我々が行い、不足であったが、最初に協力してくださったT新聞社文化センター所長F氏であった。

旧市街地の過疎と不況の影響で、低迷をつづけていたが、我々の冒険が刺激剤となり
将来に夢が持てたと喜んでくれて、週に何度も訪れ、有名作家を紹介、そして、連れて来てくださった。

定年近い彼は白内障に悩まされていたが、後半は薄く霞んでしか見えない目で、名画の前に佇み、何度も足を運んでくれた。彼の崇高なまでの熱意は決して忘れるものではない。

そのご縁で、T新聞社支局長との交流が生まれ、私財を投じての快挙と「ときの人」の正月番組に大きな私の写真入りで報じてくれた。そして、古い封建的なこの町に二人で大きな波紋を起こそうと誓った仲となった。

彼も、ある日突然訪ねてきて、「ところてん方式の犠牲」と寂しく、他支局長として転勤されたが、今尚、心の交流が続いている。

彼もまた、T新聞社独特の個性とガッツのある頼もしい協力者であった。

美術館その4

2005-02-11 13:28:00 | Weblog
主な有名作家を表示すると。次の如くである。
ドリーブ・アルノード(ル・サロン名誉会長)ポール・アンビーユ(同名誉会長)バロン・ルヌアール(ユネスコ造形美術評論会会長)ザッキ・ジャン・マリ(ル・サロン名誉会長)シュミット・ロベル・G(サロン・コンパレゾン代表)ホアン・ホセ・タラツ(カタルニアの巨匠)モニック・ジュノー(サロン・ド・トーヌ会長)フレデリック・マンギー(ソシエナショナル・デ・ボザール会長)以下有名作家。

美術館その3

2005-02-11 11:54:00 | Weblog
数店舗になってしまった食品街の半分にゲームセンターの騒音。これを排除したかったのが前記のテナント代表である。

些か美術に興味と知識を持っていたから、会社側を説得して、我々を招いたのであった。

一見、町おこしの情熱に負けたOと私はそれに乗せられたのであった。即ち、我々作家は、腹黒い企みを見抜くにはあまりにも単純過ぎたのである。

それでも、年の功であろう、一ヵ月後には正体を見破った私は、会社側即ち当時の支配人と直接交渉をすることにした。

何故なら、名画数十点を常設展示するための費用と労力は並大抵のものではないからである。それなのに、我々から、テナント並みの家賃を割安とは言うものの、毎月負担させるものであった。

美術館その2

2005-02-11 11:39:00 | Weblog
NHKのル-ブルをみて、記す気になったのであるが、最近、その必要があると思うようになった。

何故なら、そこには多く美術愛好家の好意、情熱、友情があったからである。

一ヶ月かかって、元ゲームセンター跡を改造し、展示室と向かい側には日本の一流陶芸家作品展示場を設けたのである。

後に知ったのだが、6階は以前、食品街で
和洋十数店舗が繁栄を極めていた、岡崎市の名所であったらしい。

その後入店したゲームセンターが不良の巣となりつつあったため、警察と学校と父兄で協力して何とか静定したところであったという。